2019年8月28日水曜日

《三遠地区使信 №1066》20190901「つながる」

「つながる」

 今日は9月1日、「防災の日」です。台風、高潮、津波、地震等の災害についての認識を深め、それらの災害に対処する心構えを準備するためとして、1960年に内閣の閣議了解により制定されました。また、1982年からは、9月1日の「防災の日」を含む1週間(8月30日から9月5日まで)が「防災週間」と定められています。9月1日という日付は、1923年9月1日に発生し、10万人以上の死者・行方不明者を出した『関東大震災』に由来しています。
 この日は、私たちの三遠地区でも南海トラフ地震について改めて意識を高める日です。あの未曽有の被害を出した東日本大震災の被災地も今月11日に被災から8年半を迎えます。 
 今、被災地は先月の機関紙『るうてる』の巻頭説教でも紹介した通り、完成した復興公営住宅でやすらいだ平和な日々を過ごされています。今年5月27日、その復興公営住宅が地元紙、河北新報に「手筒花火、まちの門出祝う」と見出しのつけられた記事が次のように掲載されました。
 石巻・二子団地でまちびらき祭東日本大震災の被災者が移り住む宮城県石巻市の防災集団移転団地「二子団地」で5月26日、まちびらき祭が開かれた。被災地支援を続ける愛知県豊橋市の有志らが駆け付け、手筒花火で新たなまちの門出を祝った。4月に発足した三つの行政区のコミュニティーづくりを促すとともに、全国から寄せられた復興支援に感謝を伝えようと開催した。豊橋市伝統の手筒花火は12発が披露された。花火師が抱えた筒から火柱が上がると、集まった住民から歓声が湧いた。二子東町内会の藤村充会長は「風習の異なるさまざまな地区の人が集まってできた地域。今回のような催しを通して住民が一つになっていけたらいい」と期待した。二子団地は2017年末までに計372戸分の宅地造成が完了し、現在約350世帯が暮らしている。
 この記事を知るきっかけとなったのは、先月、その団地に住まわれている方に豊橋の特産をお送りした際のお礼の中で、この団地開きで手筒花火が披露されたという話があったからです。私が昨年、このみのり教会のある豊橋市に引っ越しをした時、このまちに石巻(いしまき)山があることを知り、支援していた石巻との不思議なつながりを感じていましたが、また、今回のことでさらにそのつながりの強さに驚きました。


 イエスさまは私たちに「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(ヨハネ15章: 4節)と言われます。それはどんな時にも、どこにいてもイエスさまにつながっていれば、豊かな実り、つまり、神さまの平和を得られるということです。被災地の方もわたしたち(となりびと)とのつながりを通して、この神さまの平和につながっているのです。
みのり教会 野口勝彦

2019年8月25日日曜日

聖霊降臨後第14主日礼拝のご案内。20190914・15

聖霊降臨後第14主日礼拝(9/14・15)

野口勝彦牧師による

「罪人」

の説教で守られます。

どなたもご自由にご出席ください。




徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
ルカによる福音書15章1節~10節

聖霊降臨後第13主日礼拝のご案内。20190907・08

聖霊降臨後第13主日礼拝(9/7・8)は

佐藤重子姉による

「想い出の花の人々

の立証で守ります。

どなたもご自由にご出席ください。
尚、当日は信徒礼拝となります。




なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」
マタイによる福音書6章 28節~34節

聖霊降臨後第12主日礼拝のご案内。20190901

聖霊降臨後第12主日聖餐礼拝(9/1)は

野口勝彦牧師による

「お返し

の説教で守られます。

どなたもご自由にご出席ください。


イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」ルカによる福音書14章 7節~14節

聖霊降臨後第11主日礼拝。2019082425


本日、聖霊降臨後第11主日礼拝を守りました。感謝です。
礼拝後はご覧のお土産などで楽しい交わりの時を持ちました。


昨日は、神戸でスタッフトレーニングを終えた青年が御覧の通り豊橋礼拝所を訪問してくださいました。

2019年8月20日火曜日

聖霊降臨後第11主日礼拝のご案内。2019082425

聖霊降臨後第11主日礼拝(8/24・25)は

野口勝彦牧師による

「狭い戸口から入る

の説教で守られます。

どなたもご自由にご出席ください。



イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」
ルカによる福音書13章25節~30節

聖霊降臨後第10主日礼拝。20190817・18

先週土曜日、今週日曜日、聖霊降臨後第10主日礼拝を守りました。


豊橋礼拝所では、礼拝後、親子で礼拝に出席された方からいただいたお土産などで、交わりのひと時を過ごしました。感謝です。



2019年8月13日火曜日

聖霊降臨後第10主日礼拝のご案内。20190817・18

聖霊降臨後第10主日礼拝(8/17・18)は

野口勝彦牧師による

「真の平和

の説教で守られます。

どなたもご自由にご出席ください。
尚、田原夕礼拝(8/17)は聖餐礼拝となります。


「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。ルカによる福音書12章49節~ 53節

2019年8月6日火曜日

聖霊降臨後第9主日礼拝のご案内。20190810・11

聖霊降臨後第9主日礼拝(8/10・11)は

野口勝彦牧師による

「神の前に

の説教で守られます。

どなたもご自由にご出席ください。




群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
ルカによる福音書12章13節~21節

『ともしび』再開128号。20190804


「元気を出しなさい」

日本福音ルーテルみのり教会牧師 野口勝彦

『ともしび』128号が発行された今日、豊橋礼拝所を献堂された末竹十大牧師をお迎えして、豊橋礼拝所20周年記念感謝礼拝が行われます。

みのり教会宣教50周年記念誌『みちびき』には、その献堂された豊橋礼拝所の全景が三浦知夫牧師の巻頭言に続く「50年のアルバム」と題されたページの最初に大きなカラー写真で紹介され、今から20年前の今週木曜日、つまり、1999年(平成11年)8月8日に行われた献堂式の様子が2ページにわたり紹介されています。
末竹十大牧師はこの『みちびき』の中で当時の思い出を次のように記されています。
「みのり教会は私が赴任した頃は『舟原の人』『高師の人』『田原の人』という三つの人種が生息しているところでした。そのうちみんなが『みのりの人』になっていった。それは建築を通してでした」
また、末竹十大牧師のパートナーの真木雅子さんは同じ『みちびき』の中で当時の思い出を次のように記されています。
「家族の中での妻として、母としての役割、牧師の妻としての役割、そして一人の人格としての私。これからどういう立場で教会生活をしていけばよいのか、夫と話し合った末、夫とは別姓の『真木』を名乗り、一信徒という立場でいこうと考え、あとは神さまにおゆだねしました。初めてみのり教会でご挨拶をした時『あら、別姓っていいんじゃない』という意外なほどあっさりとした皆さんの反応。そして、全く何の違和感もなく私達家族を受け入れて、小さかった子供も、未熟な私もかわいがって下さった。そんな皆さんと教会生活を共に送るうちに舟原の教会と高師教会、田原教会、少ない信徒で礼拝を守り、会堂掃除をし、なんとか教会を守ろうとする姿が見えてきました。そしてその静かな熱意が、みのり教会の新築という大きな夢を実現しました」
その献堂の日から20年を迎え、豊橋礼拝所献堂20周年記念感謝礼拝がいよいよ、今日、行われます。
この日のために朝倉ご夫妻が、記念品を準備してくださいました。その記念品には使徒言行録27章 のみ言葉、「元気を出しなさい」が大きく記されています。
使徒言行録27章、そこには、使徒パウロのローマへの困難な航海の旅が記されています。
みのり教会もこの豊橋礼拝所を与えられたこの20年間、様々な苦難に遭いながらも、今日のこの日を迎えることができました。
 それは、パウロが「ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります」と言われた通りです。
 私たちはこのみ言葉を信じ、元気を出して、神さまから与えられたこの豊橋礼拝所でこれからも、天に召されるまで、毎週、礼拝を守っていければと思います。

内村鑑三と平和論 

その2 日露戦争における非戦論  


長谷川勝義

 日本は、日清戦争に勝利し、アジア各地に領土や権益を拡大していく。「大東亜文化共栄圏」つまり、日本が主導して東アジア諸国の近代化を図り、欧米の支配を退け、東アジアの国々の力で共に栄えていこうという論理で以って、日本の進出を正当化したのが、当時の伊藤博文や山県有朋などであった。当然の結果として、ヨーロッパの大国ロシアと、満州から朝鮮にかけての権益を巡って対立を深めた。
 このような日露の戦いが避けられないような状況の中で、世論は、勢いに乗って「戦うべし」の考えが強かった。日露戦争が始まる1年前内村は「万朝報」により、非戦論を主張した。義戦論の反省の上に立った非戦論である。
「余は日露非開戦論者であるばかりではない。戦争絶対的廃止論者である。そうして戦争は人を殺すことである。人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得よう筈はない。」
「世には戦争の利益を説く者がある。然り、余も一時はかかる愚を唱えた者である。然しながら今に至ってその愚の極なりしを表白する。戦争の利益はその害毒を贖うに足りない。戦争の利益は強盗の利益である。これは盗みし者の一時の利益であって、彼と盗まれし者との永久の不利益である。盗みし者の道徳はこれがために堕落し、その結果として彼はついに彼が剣を抜いて盗み得しものよりも数層倍のものを以って彼の罪悪を償わざるを得ざる至る。もし世に大愚の極みと称すべきものがあれば、それは剣を以って国運の進歩を計らんとすることである。」
 ここでは、戦争の悪なること、愚なることを道徳的見地から説き、さらに、それは、結果的にも、国の本当の利益にならないことを論じている。無理やり取ったものは、結果的に問題を起こして、国家の不利益となることを見通した明察の主張である。さらに、彼の主張は、徹底的非戦論にすすんでいく。同じ「万朝報」の「近時雑感」において次のようにキリストの教えに基いた無抵抗の考え方を述べる。
「もし他人が余を殴った時に余が彼を殴り返したならば余はその時既に彼に負けたのである。しかし余がその時忍んで彼をして余を殴打らしめ後喜んで彼を余の心より許したならば余はその時彼の上に大いなる勝利を得たのである。余はこのことを余の生涯の実験によって知った。そうして余は国民と国民の間においてもこのことの真理であることを信じて疑わない。君子国の外交とはかくの如きものでなくてはならないと思う。」
「もし余をして日本国の外務大臣たらしめば、まず、閣議において軍備の全廃を決するであろう。その後に、ロシア政府にこう通告する。『貴国の満州、朝鮮における行為の横暴を極む、余は日本国政府を代表し、ここに貴国の反省を望む』と。ロシア政府は笑うであろう。笑ってさらに満州の軍備を増強し、日本国を威嚇しようとするだろう。そこで『余は重ねて貴政府に忠告す。貴国は非紳士的行為を続けてあり、余は人道の名によりて貴国に改悛を勧告す。もしそれ、軍備に至っては我国はこれを大罪悪を行なうための凶器と認めたれば既にこれを全廃せり』と。」
 このように、かつて義戦論を唱えて、必要な戦争を容認していた彼が、その間違いに気づき、キリストの精神に戻り、悪人に対しても、右の頬を打ったら、左の頬も打たせよ、との教えを国家にも当てはめてという無謀ともいうべき軍備全廃を提案している。徹底した真剣さはわかるが、あまりにも現実離れした夢物語の提案である。内村の義戦論も、絶対的非戦論にしても、目指すその高みの理想は、わかるが、現実の困難さを踏まえつつも、どのようにその高みに持っていくかの方法論に甘さがあるのではないか。どうみても、内村の議論は、現場に身を置いた者としての十分な論理ではないような気がする。
 前田英樹氏はその著『信徒内村鑑三』(河出ブックス)  で、この内村鑑三の絶対的非戦論と同様の非戦論を貫き通したインドのガンジーを取り上げている。そこを引用させていただく。
 「ところで、私は、これと同じ同心円が、インドのマハトマ・ガンジーにおいてもまた見事に描き出されていることを見ないわけにはいかない。内村の『基督教』は、ガンジーの『ヒンドゥー教』であり、内村の日本は、ガンジーのインドであるに過ぎない。例えば、ガンジーは1920年『ヤング・インディア誌』に、『剣の教義』と題して次のように書いている。
『もしインドが剣の教義を採るならば、インドは一時的な勝利を得るかもしれない。だがその時は、インドはもはや私の心の誇りではなくなるであろう。わたしは、私のすべてをインドに負っているために、インドと固く結ばれている。私は、インドが世界に対して使命を担っていると断じて信じている。インドは盲目的にヨーロッパを真似るべきではない。インドが剣の教義を受け入れる時は、私の試練の時となるだろう。私は、思い残すことがないようにやりたい。私の宗教は地理的な限界を持たない。もし私が自分の宗教に生きた信仰を持っているとすれば、それは、インド自身への私の愛をも凌駕するであろう。私の生涯は、それこそがヒンドゥー教の本質であると信じている非暴力の宗教を通して、インドに奉仕するために捧げられているのである。』
 ガンジーの立派さは、非暴力の精神を貫いて、インドを最後まで、愛したことである。インドは、剣の力を用いないで、インドの独立を勝ち得た。そこには、ガンジーの非暴力の教えが広く国民に浸透していた結果かもしれない。ガンジーは、身をもって、民衆と一緒に行進し、断食をし、無抵抗主義を実践し、「マハトマ・ガンジー」つまり、「聖者ガンジー」の称号を勝ち得、国民の尊崇を得ていただけに、ガンジーの前言は、重みがあり、訴える力を持つ。それに比べると、内村の絶対的非戦論の趣旨は同じにしても、どうしても、空虚な言葉だけの理想論となってしまうのである。

《これからの予定》

□8月8日(木)  田原牧師滞在日
□     10日(土)  田原夕礼拝
□     11日(日)  日曜礼拝
15日(木)  田原牧師滞在日
□     16日(金)  朝祷会
□     17日(土)  田原夕礼拝
□     18日(日)  日曜礼拝、祈祷会、お便りの集い
22日(木)  田原牧師滞在日
24日(土)  田原夕礼拝
25日(日)  日曜礼拝
29日(木)  田原牧師滞在日

編集後記
新会堂建築20周年を8月に迎えました。20年前、まだ、お元気で写真に写っていた方々の何人かは、すでに、天に迎えられて行きました。20年は短いようで長いということです。この後、また20年たてば、私たちの多くは、ここにいません。天で、みのり教会を見守っていることでしょう。教会は無くなりません。永遠に存続します。若い人たちが受継ぐのです。みのり教会がこれからもこの地で良き働きが出来、神様の祝福の場所となりますように!

《三遠地区使信 №1062》20190804「 会 堂 」

 「 会 堂 」

今日は84日、みのり教会豊橋礼拝所献堂20周年記念感謝礼拝の日です。
現在の豊橋礼拝所を献堂された末竹十大牧師をお迎えして記念感謝礼拝を豊橋礼拝所で守ります。
 現在、みのり教会は、この豊橋礼拝所と田原礼拝所の二つの礼拝所で礼拝を守っていますが、今から21年前、つまり、1998(平成10)329日の高師会堂聖別解除式まで、高師会堂でも礼拝が守られていました。みのり教会の前身である豊橋教会の最初の献堂式は1956(昭和31)1111日、田原教会の最初の献堂式は1958(昭和33)923日、高師教会の献堂式は1967(昭和42)423日にそれぞれ行われています。三教会の会堂は、その後、それぞれ改築や新築、そして、解体されました。
 教会とは言うまでもなく、建物ではなく、神さまを、イエスさまを信じる人々の集まりです。そういう意味では会堂はなくてはならないものではありません。
しかし、豊橋教会献堂25周年記念誌『みちびき』の巻頭言で内田隆之牧師は会堂について「教会堂や境内にも、宣教の言葉を語ってもらいたいものである。死を求めてさまよっていた人が、この教会堂を見て中に入り、牧師の話を聞いて生を決断した、ということがあった。もの言わぬ建物がみごとに語りかけた一例である。境内が荒れはて、近所で『おばけ屋敷』とささやかれていた時代があったそうである。教会としての聖徒の群れが『飼うもののいない羊の群』となってしまって、メッセージを語りかける生命の泉が枯渇していたのではなかろうか。教会堂も境内も、そこに連なる人々が語らせるのだ。われわれのこの教会堂は25年間にわたり、われわれの信仰の姿を語り続けてきた」と述べています。
また、みのり教会宣教50周年記念誌『みちびき』の巻頭言の中で三浦知夫牧師は「みのり教会の50年前の船出は、礼拝堂、十字架、聖壇、聖書、讃美歌といった、そのすべてを地域や近隣の教会から借り受けて始められたものだったことが分かります。しかし、50年を経た今、教会には、豊橋市の『日本福音ルーテルみのり教会』と田原市の『日本福音ルーテルみのり教会田原礼拝所』という二つの看板が掲げられ、その建物自体が街にメッセージを投げかけている二つの礼拝所を有しています。この二つの礼拝堂で神様から豊かに祝福を受け、喜びをもって地域に伝道と奉仕をしていく群れであり続けることを、この宣教50周年の節目の時に、新たに決意したいと思います」と記しています。
このお二人の言葉からも分かる通り会堂は単なる建物ではなく、その建物が教会のつまり私たちの信仰を表しているものなのです
みのり教会 野口勝彦



豊橋礼拝所献堂20周年記念感謝聖餐礼拝。20190804

  今週の木曜日に、豊橋礼拝所は献堂から20年を迎えます。このことを記念して、この礼拝所を献堂された、なごや希望教会の末竹十大牧師を迎えて、今週日曜日に豊橋礼拝所献堂20周年記念感謝聖餐礼拝をご覧の通り守りました。







礼拝後は末竹牧師、長谷川代議員の挨拶に続き



記念写真の撮影を行いました。


記念撮影後はお楽しみの茶話会。


今日の日のために女性会が準備してくださった数々の品々に、福岡、信州、東北から届いた特産品を加えた豪華なテーブルを囲み、この20年間の思い出を時間を忘れて、それぞれ語りつくしました。


感謝!