2019年11月25日月曜日

《三遠地区使信 №1078》20191124「クリスマスプレゼント」

 「クリスマスプレゼント」

先月の4・5日、東教区3.11プロジェクト「東北訪問プログラム」に同行しました。(こちらで訪問の詳細をご覧いただけます。http://lutheran-tonaribito.blogspot.com/2019/11/)
プログラム2日目は偶然にも「世界津波の日」、その日、本来は休館であった気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館が特別開館していたので、初めて訪問しました。そこで私たちは震災発生から10日後に避難所で行われた卒業式という衝撃的な映像に出会いました。その答辞の全文を紹介します。
 本日は、未曾有の大震災の傷も癒えない最中、わたくしたちの為に、卒業式を挙行していただきありがとうございます。ちょうど、十日前の三月十二日、春を思わせる暖かな日でした。わたくしたちは、そのキラキラ光る日差しの中を、希望に胸を膨らませ、通いなれたこの学舎を、五十七名揃って巣立つ筈でした。前日の十一日。一足早く渡された、思い出のたくさん詰まったアルバムを開き、十数時間後の卒業式に、思いを馳せた友もいたことでしょう。「東日本大震災」と名づけられる、天変地異が起こるとも知らずに・・・階上中学校といえば「防災教育」といわれ、内外から高く評価され、十分な訓練もしていたわたくしたちでした。しかし、自然の猛威の前には、人間の力はあまりにも無力で、わたくしたちから大切なものを、容赦なく奪っていきました。天が与えた試練というには、むごすぎるものでした。辛くて、悔しくてたまりません。時計の針は、十四時四十六分を指したままです。でも、時は確実に流れています。生かされた者として、顔を上げ、常に思いやりの心を持ち、強く、正しく、たくましく生きていかなければなりません。命の重さを知るには、大きすぎる代償でした。しかし、苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていく事が、これからの、わたくしたちの使命です。わたくしたちは今、それぞれの新しい人生の一歩を踏み出します。どこにいても、何をしていようとも、この地で、仲間と共有した時を忘れず、宝物として生きていきます。後輩の皆さん、階上中学校で過ごす「あたりまえ」に思える日々や友達が、いかに貴重なものかを考え、いとおしんで過ごして下さい。先生方、親身の御指導、ありがとうございました。先生方が、いかにわたくしたちを思って下さっていたか、今になってよく分かります。地域の皆さん、これまで様々な御支援をいただき、ありがとうございました。これからもよろしくお願い致します。お父さん、お母さん、家族の皆さん、これからわたくしたちが歩んでいく姿を見守っていて下さい。必ず、よき社会人になります。わたくしは、この階上中学校の生徒でいられたことを誇りに思います。最後に、本当に、本当に、ありがとうございました。
(こちらで実際の映像をご覧いただけます。
みのり教会 野口勝彦

待降節第1主日礼拝のご案内。20191201

待降節第1主日聖餐礼拝(12/1)

野口勝彦牧師による

「目を覚ましない」

の説教で守られます。

どなたもご自由にご出席ください。


「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」マタイによる福音書/24章 37節~44節

田原讃美礼拝のご案内。20191124


昨日、年に一度の田原日曜讃美礼拝が行われました。



礼拝後は、それぞれで選んだお弁当で楽しい交わりの時を持ちました。


食事後は手造りのシフォンケーキや安曇野のリンゴをお美味しくいただきました。



2019年11月18日月曜日

聖霊降臨後最終主日礼拝のご案内。20191124

聖霊降臨後最終主日礼拝(11/24)

野口勝彦牧師による

「忍耐」

の説教で守られます。

どなたもご自由にご出席ください。


尚、田原礼拝所は讃美日曜礼拝(午前10時30分~)となります。豊橋礼拝所は上記説教代読による信徒礼拝となります。また、11月23日の田原礼拝所の夕礼拝は行われません。

◆神殿の崩壊を予告する
 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
◆終末の徴
そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。
ルカによる福音書21章5節~19節

2019年11月15日金曜日

聖霊降臨後第23主日礼拝のご案内。2019111617

聖霊降臨後第23主日礼拝(11/16・17)

野口勝彦牧師による

「神によって生きる」

の説教で守られます。

どなたもご自由にご出席ください。

尚、田原礼拝所夕礼拝は聖餐礼拝となります。


◆復活についての問答
さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。
ルカによる福音書20章27節~40節

2019年11月7日木曜日

聖霊降臨後第22主日礼拝。20191110910

聖霊降臨後第22主日礼拝(11/9・10)

野口勝彦牧師による

「あなたの一ムナ」

の説教で守られます。

どなたもご自由にご出席ください。

尚、豊橋礼拝所の礼拝は聖餐礼拝となります。
また、両礼拝所の礼拝中で子ども祝福式を行います。




◆「ムナ」のたとえ
 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』 主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』
ルカによる福音書19章11節~27節

『ともしび』再開131号。20191103

「心の貧しい人」

「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである」
マタイによる福音書5章3節

日本福音ルーテルみのり教会牧師 野口勝彦

   台風19号に続き、台風21号による豪雨による災害が千葉県を中心に発生しました。被災された方々のことを覚え、被災地の復旧・復興が一日も早く進みますよう祈りたいと思います。
   さて、『ともしび131号』が発行される今日は全聖徒主日です。天に召された方を覚え、共に礼拝を守る特別の主日です。礼拝後には、高山霊園で墓前記念会も行われます。
   天に召される日、つまり、この世での使命を終えた後、多くの人は、これまでのこの世での様々な恵みを与えてくださったことを神さまに感謝し、また、天に召された方のことを覚える葬儀を行います。
  そして、葬儀の最後、つまり出棺の時、私は牧師として「山上の説教」と呼ばれるみ言葉を唱えることにしています。それは、ここには私たちへの「祝福」つまり、神さまから与えられる幸福について記されているからです。
  このみ言葉は「心の貧しい人は、幸いである、天の国はその人たちのものである」から始まります。
  「心の貧しい人」、これは、ギリシア語原語から直訳すれば、「霊において乞食である者たち」、つまり、「自分に誇り頼むものが一切ない者」と言う意味です。
   この「心の貧しい人」と言うみ言葉には、次の三つの意味があります。
  一つ目は「実際に乏しく、苦しみ、悩む人」、二つ目は「神の前に心低く、謙遜である人」、三つ目は「神のため隣人のために貧しさを引き受け、戦う人」と言う意味です。
 そして、この三つの意味の人々が、続くみ言葉に現れます。つまり、「実際に乏しく、苦しみ、悩む人」とは「悲しむ人々」であり、「神の前に心低く、謙遜である人」とは「柔和な人々」、そして、「神のため隣人のために貧しさを引き受け、戦う人」とは「義に飢え渇く人々」であると。
 その彼らは、まさに、今、神さまから「幸いである」と祝福されるのです。
 「幸い」、このみ言葉は、本来、神々における不安・労働・死のない至福の状態を表す言葉です。「不安・労働・死のない至福の状態」、それは、まさに、パラダイスそのものです。
 そのパラダイスの門、つまり、天国への門が開かれた時、永遠の命を得、天に向かうその時にこの世の最後の言葉として私は唱えるのです。
 神さまに祝福され、永遠の命を得て、天に送られた方々は、今、神さまの身許で安らかな日々を送り、この世の私たちを見守ってくださっているのです。

内村鑑三における宗教思想「ともしび129号」からの続き   
長谷川勝義
 (四) 何を信ずるか
 「『すべての事これ信じ』とは何事によらずこれを信ずとの意にあらず、すべての事これ信じとはすべての善き事はこれ信ずとの意なり。余輩は天に愛の父の在すを信ず、余輩は罪の赦しを信じ、霊魂の不滅と肉体の復活を信ず、余輩は万物の復興と天国の来臨とを信ず。余輩の信ずべからざることは悪が遂に世に勝たんとのことなり。この世が全滅に帰して混沌の再び宇宙を蔽うに至らんとのことなり。信仰は希望なり、善を望まざる信仰は信仰にして信仰にあらず。」
このように鑑三は、基督教の信仰の何たるかを述べている。 
 信仰は、希望であり、善なることを信じることであると言う。悪に打ち勝つのを信じるのである。正義と愛の神の内
に安心して過ごすことを信じるのである。
(五) 無教会
 「我は我が主イエスキリストに倣いて教会なるものを建てざるべし。教会は真理を制限す
るものなり。しかして、制限せられて真理の繁殖を計る難し、我は真理其物を伝えてその保存扶植を画せざるべし。我は単純なる伝道者たらんと欲す。」
 キリストは教会を作らなかった。それに倣って鑑三も無教会でいくと言う。教会は、組織であるから、決まりが必要となり、どうしても、色々なことを制限する。これまでの教
会の歴史がそれを物語っている。真理は制限されてはならないというのが、鑑三の無教会の意味なのである。基督の真理は、「教会」によっても制限されてはならないものである。
(六) 真理の自存
 「真理は其物自身の証明者なり、真理はまた、其物自身の拡張者にして且つ保存者なり、単純なる真理其物を伝えて吾人は衰退煙滅を懼るるの要なし、真理は其物自身の気付けを
取るべし。吾人はこれを天の雨と地の風とに任せて、その成長を疑うべからず。」
 鑑三の生涯は真理の追究に尽きると思う。基督イコール真理と信じた鑑三の生涯である。
 真理でありさえすれば、それは、自然と成長し発展する。消滅するようなものではないという確信があった。基督の教えも、真理である以上、衰退・煙滅の心配は全くないのであ
る。鑑三にとって、基督教が真理でなかったならば、それは滅び行くものなのである。
(七) 破壊者
 「真理は一種の破壊者なり、真理の破壊性を懼れてその伝播に従事する難し、真理は能く毀ちて能く建てるものなり、世に焼かざる火を求むる者あるなし、然れども毀たざるの真
理を求むる者の往々にしてあるを如何せん。」
 真理は破壊者あると言う。いかにも内村らしい言い方である。真理であればあるほど、そうでないものとぶつかる時がある。そういうときには、真理は破壊者となるか、妥協するかである。真理は妥協したのではそれは真理でなくなる。真理は敵を破壊するのを懼れてはならないというのである。
(八) 伝道唯一の方法
 「伝道の方法を講ずる者多し。然れども余輩はその浅慮に驚かざるを得ず、伝道唯一の方法は福音有りのままを確信してこれをこの飢えたる社会に供するにあり、この確信乏しく
して伝道せんと欲す、これ弾薬に乏しくして戦略を講ずるの類ならずや。」
 救いの真理である福音をそのまま人々に供すれば、それが伝道で、その成果に汲々することはないと言うのが鑑三の伝道であった。人々は本当の福音に飢えているはずだという確信が鑑三にはあったのである。
(九) 迷信と信仰の区別
 「道徳に関係なきもの、また、道徳に違反するもの、これ迷信なり。道徳と相い離れざるもの、また、道徳を助くるもの、これ信仰なり。福利を祈ることこれ迷信なり、正義を懇
求するもとこれ信仰なり。迷信、信仰の別は知識的ならずして道徳的なり。」
 鑑三は、迷信と信仰の区別を、それが道徳的かどうかで分けている。迷信は、己の望みや利得だけを求めるが、信仰は違うというのである。信仰は、正義でなくてはならないというところがいかにも、武士的信仰の内村の信仰を表わしている。信仰において求めるものは、それが個人的であっても、皆に広く益するものであるはずである。それにしても現代の世の中に、迷信を信じている者がいかに多いことか、己の利得を求める信仰者が多いことか、鑑三の嘆くところである。
③ 内村鑑三の無教会論
 内村鑑三がなぜ、教会を持たず、教会無しのキリスト教を推し進めたかは、なかなか理解しにくいところである。
ただ、解るのは、これまでの教会があまりに組織化され、制度化されて、使徒時代にあったような、信徒の生き生きとした交わりや、聖霊に押し出されて主の証人として人々に基督の福音を伝えることが見られなくなったという強い批判と懸念があったのではないかということである。極端に言うと、世の教会は、堕落しており、真の教会ではない。教会は、建物や組織や聖職者を必要としないということである。洗礼とか聖餐式とかそういう儀式すらも必要ではないという。これは、革新的なことである。
 彼は、明治34 年に『無教会』という小冊子を発刊して、世に無教会という教会があることを公にしたのである。この第一号によってなぜ、今、無教会なのかを見ていきたい。
(一) 教会のない者の教会
 「『無教会』と言えば無政府とか虚無党とかいうようで何やら破壊主義の冊子のように思われますが、決してそんなものではありません。『無教会』は教会のない者の教会であります。即ち、家の無い者の合宿所ともいうべきものであります。即ち、心霊上の養育院か孤児院のようなものであります。『無教会』の無の字は『ナイ』と読むべきものでありまして、『無にする』とか『無視する』とかいう意味ではありません。金の無い者、親の無い者、家の無い者は皆な可憐な者ではありませんか、そうして世には教会の無い、無牧の羊が多いと思いますから、ここにこの小冊子を発刊するに至ったのであります。」
 ここで言っていることは、教会を無しにするとか、無視するのではなく、教会を持たない人や、何かを求めている人たちが集える所の場所や時を提供するのが無教会の趣旨であるという。ここで言いたいことは、今までの教会ではないけれども、基督を求める人々が集まり、聖書の教えを聞いたり、賛美したり、信徒同士の交わりができる、そんな孤児院や養育院にあたるものを無教会は目指しているのは明らかである。

《みのり教会 11月の予定》
□ 3日(日) 日曜礼拝(全聖徒主日)、墓前記念会、役員会
□ 4日(月) 
 5日(火)東教区プロジェクト3.11「東北訪問プロム」 
□ 6日(水)聖書に聴き祈る会
□ 7日(木)田原牧師滞在日
□ 9日(土)田原夕礼拝(子ども祝福式)
□10日(日)日曜礼拝(子ども祝福式)
□13日(水)聖書に聴き祈る会
□14日(木)田原牧師滞在日
□16日(土)田原夕礼拝
□17日(日)日曜礼拝、祈祷会、お便りの集い
□19日(火) 海地域教師会役員会(豊橋)
□20日(水)聖書に聴き祈る会
□21日(木)田原牧師滞在日
□24日(日) 田原日曜礼讃美拝、豊橋信徒礼拝
□27日(水)聖書に聴き祈る会
□28日(木) 田原牧師滞在日
□30日(土)「熊本地震に学ぶ」~南海トラフ地震に備えて

編集後記
 今年は、風水害の被害が続いた年でありました。多くの方が被害に遭われ、その苦しみは耐えがたいものがあると思います。一日も早い復興を祈るのみです。
   今年もあとわずかです。これからやっと秋晴れも望めそうです。クリスマスに向けて、多くの人が教会に来られるよう祈りたいと思います。

全聖徒主日礼拝。201901103

今週の日曜日、ご覧の通り、召天された方のご遺族を迎え、全聖徒主日礼拝を守りました。

礼拝後は高山霊園で墓前記念会を行いました。