2020年7月29日水曜日

平和の主日礼拝のご案内。20200802

平和の主日礼拝(8/2)は

野口勝彦牧師の

「互いに愛し合いなさい」

の説教で守られます。

どなたでも、ご自由にご出席ください。

尚、礼拝は、感染防止のため「新しい生活様式」に従い行います。



父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
ヨハネによる福音書15章 9節~12節

昨年の台風被害によって伐採された田原礼拝所のシンボルツリーのモミの木の切り株周りにも、綺麗に花が植えられました。感謝です。

2020年7月23日木曜日

聖霊降臨後第8主日礼拝のご案内。2020072526

聖霊降臨後第8主日礼拝(7/25・26)は

野口勝彦牧師の

「分かりました」

の説教で守られます。

どなたでも、ご自由にご出席ください。


尚、礼拝は、感染防止のため「新しい生活様式」に従い行います。

イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
マタイによる福音書13章31節 ~52節 

豊橋礼拝所では、梅雨明けが待てないセミが一斉に羽化し、夏の到来を告げています。

納骨式。20200723

本日、ご覧の通り、昨年、天に召された方の納骨式を高山霊園の教会墓地で行いました。
本来は今年の春に行う予定でしたが、新型コロナウイルスの影響で本日となりました。天候が心配されましたが、薄日も出る中で行うことができ感謝です。



2020年7月19日日曜日

《三遠地区使信 №1112》20200719「神さま!」

「神さま!」

  今年も、残念ながら九州、岐阜、長野などで豪雨災害が発生しました。(7月11日現在)毎年のように発生する災害が、ある意味、風物詩の一つとなりつつある現実に恐ろしさを感じます。今から3年前に発生した九州北部豪雨は記憶に新しいところですが、私の初任地の一つは、その九州北部豪雨が発生した隣町の二日市教会でした。私は時間雨量100mmという豪雨を車の中で、その土地で初めて体験し、あまりの恐ろしさに近くのショッピングモールの立体駐車場に逃げ込んだことを昨日のことのように思い出します。また、ニュース映像から流れ出る氾濫した水の速さは、名古屋の天白川沿いで体験した東海豪雨を思い出させます。九州・長野は、どちらも牧会した土地であり、テレビから流れ出るニュースを見ながら、それぞれの土地に住まわれている信徒の方お一人お一人のお顔が浮かびました。
   私は、その被害情報を随時知るために、総合テレビを、ほぼ一日中音声を消し、画面の情報を確認しながら仕事をしていました。皆さんもご存じの通り総合テレビでは朝と昼、そして夕方に、連続テレビ小説が放送されています。今はちょうどみのり教会のある豊橋市も舞台の一つになっている『エール』が朝と昼に放送されていますが、、もう一つ、夕方の再放送枠では岡崎教会のある岡崎市が舞台の一つである2006年の『純情きらり』が放送されています。
   今年は新型コロナウイルスの感染で、私たちが体験したことない年となっていますが、先日、この影響で、岡崎教会が中日新聞三河版に『岡崎点描』の一つとして紹介されました。中日新聞の岡崎支局長の話によると、今回の感染の影響で各種イベントが中止となり、イベント記事がなくなったので、これを機に地元、岡崎を見直すこの企画が立案され、その一つとして岡崎教会を選ばれたそうです。
  私たちは、現在のように大災害が発生し、先が見えない状態が続くと、不安に襲われますが、神さまはいつも私たち一人ひとりを、私たちが考えもしない形で励まし、見守ってくださっています。今、連続テレビ小説の舞台が、この三遠地区の二つの教会が所在する土地が舞台になっていること、そして、地元紙に大きな写真入りの岡崎教会の会堂が掲載され、紹介されたこと。これらの出来事は、どれも偶然ではなく、神さまが私たち一人ひとりを励まし、見守っているしるしであると私は思っています。
 朝、放送されている『エール』の中で、キリスト者一家の父親が突然事故で召天した時、その父親を失った子どもたちに、母親が「お父さんはあなたたちのそばにいる」と語りかけ、「4人で力を合わせて生きていく」と決意し、豊橋の表浜海岸で、海に向かって「お父さん!」と4人で叫ぶシーンがありますが、私たちも「神さま!」と心の中で叫び、豪雨被災者の方を覚え、この危機を乗り越えれることができればと思います。
         みのり・岡崎 野口勝彦


2020年7月15日水曜日

聖霊降臨後第7主日礼拝のご案内。2020071819

主日礼拝(7/18・19)は

野口勝彦牧師の

「たとえを用いて」

の説教で守られます。

どなたでも、ご自由にご出席ください。


尚、礼拝は、感染防止のため「新しい生活様式」に従い行います。


イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」
マタイによる福音書13章24節~33節、3643節 

2020年7月11日土曜日

聖霊降臨後第6主日礼拝のご案内。2020071112

主日礼拝(7/11・12)は

野口勝彦牧師の

「耳のある者」

の説教で守られます。

どなたでも、ご自由にご出席ください。

尚、礼拝は、感染防止のため「新しい生活様式」に従い行います。

信徒の方が豊橋礼拝所に咲いているお花をきれいにアレンジして献花してくだいました。感謝です。


その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
マタイによる福音書13章1節~ 23節

2020年7月4日土曜日

おめでとうございます!20200704

明日、誕生日を迎えられる信徒の方を訪問しました。
新しく与えられた一年に
神さまの特別のみ支えがありますようお祈りいたします。


2020年7月1日水曜日

聖霊降臨後第5主日礼拝のご案内。20200705

主日礼拝(7/5)は

野口勝彦牧師の

「軛(くびき)」

の説教で守られます。

どなたでも、ご自由にご出席ください。

尚、礼拝は、感染防止のため「新しい生活様式」に従い行います。




 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
マタイによる福音書11章16節~19 節・25節~30節

聖霊降臨後第4主日礼拝。2020062728

主日礼拝(6/27・28)は

野口勝彦牧師の

「冷たい水一杯」

の説教で守られました。


「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」
マタイによる福音書10章40節~ 42節

《三遠地区使信 №1109》20200628「神さまの想い」

「神さまの想い」

   6月も最後の主日となりました。今週水曜日からは7月、本格的な夏の季節を迎えます。今年の夏は、新型コロナウイルスの影響で、いつもの夏とは違う夏となりそうですが、そのような中、今月7日の三位一体主日に、みのり教会豊橋礼拝所で、イースターに洗礼・堅信式を予定していた方の洗礼・堅信式を、感染防止をしながら行いました。
  当日は、牧師も受洗者も教保も会衆もマスク姿という前例のない形での式となりましたが、「父と、子と、聖霊」の揃った洗礼にぴったりの三位一体主日を神さまは洗礼日として用意してくださり、「父と、子と、聖霊のみ名によって」という牧師の言葉に「アーメン」と受洗者は神さまから受ける喜びへの応答をすることことができました。そして、この式を通して神さまは、今、このような目に見えない閉塞感の中にいる信徒の方、お一人おひとりをも励ましくださったのです。

  司式を担った私も、その日与えられた第一の日課である創世記1章1節~2章4節を当日の礼拝の中で朗読しながら、自分自身がはじめて聖書を本格的に学んだ時のことを思い出しました。
 このみ言葉はご存じの通り、旧約聖書の始まりであり、聖書全体の始まりでもありますが、私にとってもその本格的に学んだ年のクリスマスに洗礼に導かれるきっかけとなったはじまりと言えるみ言葉です。そのみ言葉は、皆さんもよくご存じの通り、神さまがこの世界をどのように創り出したか、つまり「天地の創造」について記されています。
 私は今から23年前の1997年に、このみ言葉を、その後、入学することになる神学校のある三鷹市に、当時あったYMCA研究所で元青山学院大学教授のS牧師から学びました。
 YMCAは日本名で「キリスト教青年会」ですが、当時、キリスト者でなかった私は、1987年に入職してから日常業務に追われ、聖書を学ぶ機会はほとんどありませんでしたが、その後、入職10年を経過した1997年に2ケ月程、職場を離れ、全国の職員と一緒に研修を、箱根の東山荘と三鷹の研究所で受けることになり、その中の一つの研修として聖書の学びをする機会を得たのです。
 当時、ある分野の専門家を目指そうとその分野の大学教員の研究生になっていた私は、その聖書の学びの中で、聖書が、つまり、神さまが私たちに伝えていることは、その当時、私が目指そうとしていたものそのものであることを知り、このみ言葉に出会ったのです。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」創世記1章 31節
 そして、このみ言葉は、私だけではなく、すべての人への神さまの想いでもあることをその時、知ったのです。
みのり・岡崎 野口勝彦