2018年7月29日日曜日

平和の主日聖餐礼拝のご案内。20180805

平和の主日聖餐礼拝(8/5)は

野口勝彦牧師による

「愛にとどまる

の説教で守られます。
どなたもご自由にご出席ください。
尚、田原礼拝所の夕礼拝(8/4)は行われません。




 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
ヨハネによる福音書15章9節~12節

2018年7月22日日曜日

聖霊降臨後第10主日礼拝のご案内。20180728・29

聖霊降臨後第10主日礼拝(7/28・29)は

野口勝彦牧師による

「ただ、信じなさい

の説教で守られます。
どなたもご自由にご出席ください。


イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。
マルコによる福音書5章21節~43節

聖霊降臨後第9主日礼拝。20180721・22




みのり教会では、昨日・今日とご覧の通りひまわりを聖壇に飾り聖霊降臨後第9主日礼拝を守りました。

豊橋礼拝所では、礼拝後、差し入れていただいた『天伯スイカ』で熱中症対策をしました。感謝です。

2018年7月16日月曜日

聖霊降臨後第9主日礼拝のご案内。20180721・22

聖霊降臨後第9主日礼拝(7/21・22)は

野口勝彦牧師による

「舟

の説教で守られます。
どなたもご自由にご出席ください。
尚、田原夕礼拝は聖餐礼拝となります。

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
マルコによる福音書4章35節~41節

聖霊降臨後第8主日礼拝。20180714・15


一昨日、昨日と酷暑の中、聖霊降臨後第8主日礼拝を守りました。


豊橋礼拝所では教会関係者の方が届けてくださった豊橋名産「天伯すいか」を礼拝後いただきました。感謝です。


2018年7月9日月曜日

聖霊降臨後第8主日礼拝のご案内。20180714・15

聖霊降臨後第8主日礼拝(7/14・15)は

野口勝彦牧師による

「たとえ

の説教で守られます。
どなたもご自由にご出席ください。



また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
マルコによる福音書4章26節~34節

2018年7月2日月曜日

『ともしび』再開115号。20180701


虹を見つめて     

日本福音ルーテルみのり教会牧師  野口勝彦

「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める』
創世記98節-17

今年の三遠地区の修養会のテーマは「聖書の世界で平和を考える」ですが、今から74ケ月近く前に、平和が全く失われた光景が広がっていた地域がありました。それは東日本大震災の被災地です。
昨年の7月、その衝撃とその後の様々な支援を受けた記録を残そうと一人の被災者の方が『津波のあとの十三浜―復興への道のり-』を出版されました。
その方の名は佐藤清吾さん、ルーテル教会救援が支援していた宮城県漁協北上町十三浜支所運営委員長をされていた方です。その著書の中で、佐藤さんは、ルーテル教会救援との出会いと支援について次のように書かれています。

「日本福音ルーテル教会には、大型テントの組合負担金の助成をいただき、大変助かった。後に結婚された佐藤文敬さんと遠藤優子さんは、当時、箱眼鏡、櫂の材料が不足した中、遠方からその材料の買い付けと運搬に八面六臂の活躍をして下さった。又、復興イベントのボランティア等の広範囲な支援の手を差し延べて下さった」

その著書を通じて様々な支援に感謝されている佐藤さんですが、ご自身も被災者として大きな痛手を受けられています。
この著書の扉には「妻、由美子に捧げる」と記されていますが、佐藤さんは、今回の震災で愛する妻とお孫さん、そして、姉と二人の甥、父方の従兄、母方の従兄夫婦を失っています。その時の様子を次のように記されています。

「海から三十メートルも無い我が家には、私の半生をかけた松柏の盆栽の棚が庭一杯に有る。その盆栽と我が家の姿を眼に焼き付けておきたくて、私は再び海岸の方に車を走らせた。(中略)妻に年老いた姉と兄、孫の世話を頼むと言い残して。まさかこれが別れの言葉になると気付かずに・・・」「漸く押し上げる波が弱まった事を確かめて、山陰にある家族の居る実家に向かって瓦礫の間を縫い歩き、その方向を見るも、家がない!・・・一瞬で妻も孫も、兄も姉も流された、と悟らざるを得なかった・・・」「山の中から何人か降りて来た。(中略)するとその中の一人から、私の妻と孫が避難した実家の後ろの家のニ階のベランダに居ながら流されて行った、と聞かされたのだ」


その後、佐藤さんは、妻とお孫さんの遺体探しを次のように行います。

「私と娘は、孫の年頃の子供を見ると足を止める。妻の身長と似た人、孫のように体格の良い男の子、もしやと思い慎重に遺体を見て回る。何体の遺体の前で足を止めて探し歩いたことか」

そして、そのような状況の中、地域復興の要である漁協の代表に復帰され、地域の復興活動に専心されたのです。

佐藤さんは「あとがき」の最後を次のように結ばれています。

「『清吾さん、震災後の十三浜と、清吾さんの記録を必ず残すようにね!』あの境遇の中で、復興と云う役目を担う気力を私に与えて下さった、我孫子の仲村さんが、またしても私の尻を叩いてくれました。そして五年半経って暫くその気が起ったのです。それまでは日々の仕事と役目、来客への対応、将来への暮らしに向けての物理的な準備と心の備え、それらは私個人だけを切り離して進められない事でもありました。住み続けるこの地域の未来が、少しでも住み心地が良くなる為の準備でもあるからです、家族も含めてこの地域の人々が細やかでも新しい住処で暮らせる喜びを感じて貰える事を願っております。この場を借りて全国のご支援頂きました皆様に、北上町十三浜の被災民になり代わり、限りない感謝の思いを申し述べさせていただきます。有難う御座いました」

今日、私が選んだみ言葉には次のように記されています。

『あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。 すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。 わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない』

「虹」、それは、神さまと私たちの契約のしるしです。
そして、それは、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してしない」との神さまの約束です。
「聖書の世界で平和を考える」今日その約束を信じ、その約束のしるしであり希望である「虹を見つめて」、これからも被災地復興の支援と祈りを続けていけるよう、私たちは祈りたいと思います。    
                (2018年度三遠地区修養会開会礼拝説教抜粋)

本間俊平(ほんましゅんぺい)のこと        長谷川勝義

 当、みのり教会の前身、豊橋福音ルーテル教会であった頃、日本人牧師として始めて赴任したのは、山中恵郎牧師であったが、そのお母さんも、牧師館で住まわれていて、九州弁でとても明るくて素敵な人で、学生だった私は、よくいりびたってお世話になっていた。 確か、そのお母さんに紹介されてこの本間俊平のことを知り、『本間俊平撰集』を買い求め、むさぶるように読んだ。いつしか、愛読書となり、「多米の水源地」(昔、豊橋の花見の名所)に上っては、大声をあげて、その中の説教集を読んだことが懐かしく思い起こされる。
 本間俊平は、新潟県出身で、幼い頃から苦労を重ね、基督者となり、後に山口の秋吉台で、石工としての事業を始め、刑務所あがりの人たちや、ぐれて手に余る若者たちの更正に力を注いだ。彼の全身からなる熱情と愛から感化された者は多く、全国各地の教育現場や会社・企業から講演依頼は絶える事がなかった。彼のことを秋吉台の聖者と言う人たちもいた。『本間俊平撰集』の中の説教のほんの一部をのせる。ぜひ、こうした、本物の信仰のツワモノのことを覚えて、学んでいきたいと思う。

『本間俊平撰集』17 「キリストの証人となれ」より

一、        主は説教せよとも演説せよとも仰せ給わず、ただ証人になるべしと命じ給うのであります。今更申し上げるまでもなく、キリスト教生成の大原因は、説明にあらずして実行であり、言論でなくして能力であります。実に主の血に救われたる活ける実験的確証ほど力あるものはない。いかに流麗なる弁舌も、いかに巧妙なる説教も、ただ人心をなめずり廻すに過ぎずして、決して起死回生の能力はないのである。真に忠信なる実験的立証は、聖霊に伴われての人心頑固の硬衣を突き破り、その内部に主の生命を貫通せしむるのである。今日必要なるものは、流暢なる弁舌の人ではない。鮮麗議論の人ではない。ただイエスの後に従い、人の子のために血だらけになって役わるる人である。ああ、流暢の弁と絇爛たる言論をもって、活ける血の宗教を粉飾糊塗し去りて、白粉コテコテたる売女の如くならしめたものは誰であるか。人をして真理のため、正義のため、進んで鉄火の苦痛を受くることを嫌わしめ、ただ宗教を玩弄せしむるの弊害に陥らしめたものは誰であるか、実に今日は危険なる時代である。さなきだにずるき人心を甘やかして、熟睡せしめてしまい、麻痺せしむるの道具としてしまい、罪に死せる心霊を復活せしむるの威力と尊厳をなくしてしまったのである。


二 この恐るべき危険なる時代に要するものは、何であるか。言論に非らずして能力である。能力の泉源なる聖霊である。少しにても霊火を湛ゆる人である。非人でも、乞食でも、我々の如き職工でも、何でもよろしい。殺されても構わぬ。大胆に主の証人になるものが必要である。日本ばかりではない。世界は彼が足下に拝伏して靴の紐を解かんと待構えているのである。人力の大なるものであっても霊なくんば何の働きもできないのである。日本にはすでに幾万という信者あり、大教会あり、小教会あり、大挙伝道あり、集中伝道あり、教会と教会の喧嘩伝道あり、何でも構わぬ水かけ伝道がある。されども我国のキリスト教は血を流して受けたのではない。天より直受したものではない。外国人宣教師が本国への報告の都合から甘やかして引っ張り込んだ耶蘇教である。またもの的キリスト教である。深奥なる霊魂の燃えこまないものである。聖化せられないものである。いくら騒いでも、主の聖貌が形造られるはずはない。

かくして人の子のために何が出来るか。かかるものがどうして仁愛喜楽平和忍耐等累々たる美果を結ばれようか。・・・略。

《7月予定》
  7月 1() 日曜礼拝・7月定例役員会
       4() 聖書に聴き祈る会(午前・午後)
       5() 田原牧師滞在日
       7() 田原夕礼拝
       8() 日曜礼拝・女性会・男性会
    11 () 聖書に聴き祈る会(午前・午後)
      12() 田原牧師滞在日
      14() 田原夕礼拝
      15() 日曜礼拝・祈祷会・お便りの集い
      19() 田原牧師滞在日
      21() 田原夕礼拝
      22() 日曜礼拝
      24() 地区教師会修養会(弁天島)
   ~25()
      26() 田原牧師滞在日
      28() 田原夕礼拝
      29() 日曜礼拝・教会フォーラム




聖霊降臨後第7主日礼拝のご案内。20180708

聖霊降臨後第7主日礼拝(7/7・8)は

野口勝彦牧師による

「大きな愛

の説教で守られます。
どなたもご自由にご出席ください。



イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。
マルコによる福音書3章20節~30節

聖霊降臨後第6主日聖餐礼拝。20180701


昨日、豊橋礼拝所では聖霊降臨後第6主日聖餐礼拝を守りました。礼拝後は、安曇野から直送されたブル―ベリーなどをいただき、交わりのひと時を過ごしました。感謝です。