2019年3月31日日曜日

四旬節第5主日聖餐合同礼拝のご案内。20190407

四旬節第5主日聖餐合同礼拝(4/7)は

野口勝彦牧師による

「隅の親石」

の説教で守られます。
どなたもご自由にご出席ください。


イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。
ルカによる福音書20章9節~19節





2019年3月25日月曜日

四旬節第4主日礼拝のご案内。20190330・31

四旬節第4主日礼拝(3/30・31)は

野口勝彦牧師による

「それなのに」

の説教で守られます。

どちらの礼拝も、どなたもご自由にご出席ください。


 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
ルカによる福音書15章11節~32節

2019年3月18日月曜日

四旬節第3主日礼拝のご案内。20190323・24


四旬節第3主日礼拝(3/23・24)は

野口勝彦牧師による

「わたしは必ずあなたと共にいる」

の説教で守られます。

どちらの礼拝も、どなたもご自由にご出席ください。





ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びるまた、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
ルカによる福音書12章1節~9節



四旬節第2主日礼拝。20190317



昨日、豊橋礼拝所では、今月3日に教職按手を受け、牧師となられた筑田仁牧師を迎えて四旬節第2主日礼拝を守りました。




礼拝後は、教会員の方々の心のこもった料理で、筑田牧師を囲み、ご覧の通り昼食会を行いました。





昼食会後は、礼拝に出席できない信徒の方のお宅を訪問し、筑田牧師としてはじめての聖餐式を行いました。


聖餐式後は、信徒の方ご自慢の日本ではもうほとんど見ることができないガラ棒の工場を見学させていただきました。


2019年3月12日火曜日

《三遠地区使信 №1042》20190317「8年」

「8年」

 2011年(平成23年)3月11日(金曜日)14時46分18秒、宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmを震源とする東北地方太平洋沖地震、いわゆる東日本大震災が発生してから、先週の月曜日で8年を迎えました。この地震の規模はモーメントマグニチュード (Mw) 9.0で、発生時点において日本周辺における観測史上最大の地震であり、この地震により、場所によっては波高10m以上、最大遡上高40.1mにも上る巨大な津波が発生し、死者 15897人、行方不明 2534人(2018年12月10日現在:警察庁)の前代未聞の被害を出しました。震災発生後の震災関連死も3701人(2018年12月28日現在:復興庁)に上り、未だに52731人(2019年1月10日現在:復興庁)の方が避難生活を送られています。
 みのり教会のある豊橋市ではこの東日本大震災から8年を迎えるにあたり、弔意表明として市内の各施設における半旗掲揚、同報系防災無線を用いて地震発生時刻である14時46分から1分間のサイレンの吹鳴、サイレン吹鳴時の1分間の黙とうが実施されました。
 私も8年を迎えるにあたり、先日、東日本大震災ルーテル教会救援派遣牧師時に支援していた方々にお葉書をお書きしお送りしましたが、そのお葉書を書きながら支援先の方々お一人お一人のお顔を思い浮かべながら、その方々が遭遇された被害に思いを寄せました。
 あれから8年、私たちにとってはあっという間の8年でしたが、被災された方々にとってはとても長い8年であったことだと思います。昨年の夏、応急仮設住宅から災害公営住宅に移られた被災者の方々を個人的に訪問しましたが、その際に、被災者のお孫さんが私を見て、「この人、誰?」と被災者の方に尋ねていましたが、そのお孫さんは、私が被災地で支援していた時、「つるしびな」を作られる被災者の傍らで泣いていた赤ちゃんでした。その赤ちゃんが、もう小学生になっている現実に遭遇した時、時の経過を改めて実感しました。
 8年、それは、赤ちゃんをも大きく成長させる時間です。平成は間もなく終わり、来年は、2020年。いよいよ復興オリンピックを掲げる東京オリンピックが開催される年です。
 被災地は、これから、その東京オリンピック開催日を目標に、さらにピッチを上げ、復興に向かっていきますが、私たちは、ローマの信徒への手紙12章15節の「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」のみ言葉の通り、これからも被災地のことを覚えていけるよう共に祈ることができればと思います。
みのり教会牧師 野口勝彦


四旬節第2主日礼拝のご案内。20190316・17

田原礼拝所
四旬節第2主日聖餐夕礼拝(3/16)は

野口勝彦牧師による

「目がみえるように」

の説教で守られます。


豊橋礼拝所
四旬節第2主日礼拝(3/17)は

筑田仁牧師による

「途上にて」

の説教で守られます。


どちらの礼拝も、どなたもご自由にご出席ください。


イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。 群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。ルカによる福音書18章31節~43節 

2019年3月5日火曜日

四旬節第1主日礼拝のご案内。20190309・10

四旬節第1主日礼拝(3/9・10)は

野口勝彦牧師による

「誘惑」

の説教で守られます。
どなたもご自由にご出席ください。



さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
ルカによる福音書4章1節~13節

『ともしび』再開123号。20190303

変 容

「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」
  ルカによる福音書 9章29節

日本福音ルーテルみのり教会牧師 野口勝彦

『ともしび再開123号』の発行日、3月3日は雛祭りの日です。雛祭りは、日本において、女子の健やかな成長を祈る節句の年中行事です。教会の暦では変容主日、イエスさまが高い山に弟子たちを伴い、旧約の預言者であるモーセとエリヤと語り合いながら白く光り輝く姿を弟子たちに示したことを覚える特別の日です。
「変容」、それは、姿・様子を変えること、姿・様子が変わることを意味します。
   今日の午後7時、このみのり教会と関係の深い方がその「変容」を迎えます。その方の名は筑田仁さん、昨年の2月まで、このみのり教会で宣教研修をされていた神学生です。その神学生の彼が今日、東京教会で行われる教職授任按手式で按手を受け、その姿を神学生から牧師へと「変容」されるのです。
 その彼は、昨年2月4日に発行された『ともしび再開110号』の中で、『十字架の孤独と復活』と題して、変容後のイエスさまを次のように描いています。
 「主イエスはある面孤独な救い主でもありました。誰も理解してくれない使命、そして受けなければならない十字架という杯。これら全てを心に思い巡らしながら主イエスは子ろばでエルサレムへの道を歩んでいくのです」「孤独な主イエスの行きつく先はゴルゴダの丘での十字架という磔刑です。この十字架の磔刑によって、最後に主イエスは神からも見捨てられるのです」。
 しかし、その神からも見捨てられたように見える十字架のイエスさまの姿に「変容」させられた方がいます。
その方の名は小林セキさん、あの『蟹工船』の作者である小林多喜二のお母さんです。
 彼女は秋田県釈迦内村の小作農と小さなそば屋で生計を立てる貧しい家の娘には生まれました。当時の小作人は、地主に50%もの地代を払わねばなりませんでしたから、貧しい農家の娘たちは身売りするより仕方がありませんでした。セキの幼なじみの少女も売られていきました。
 そして、 学校へ行きたくても、学校は男の行くところだと親からは相手にされないセキは15歳で小林の家に嫁ぎ、三男三女を生み育てます。その次男が多喜二です。
セキは優しい母親でした。自分は字も書けませんでしたが、多喜二は叔父の世話で小樽高商(現小樽商科大学)まで卒業させてもらい、銀行に勤めます。当時の銀行は大変な高給で、一生涯楽に暮らせる程でしたが、多喜二は貧しい人の味方となって小説を書き、武器を作るお金で皆に白い米のご飯を!と反戦を訴え続けました。そんな彼の小説は危険思想とみなされ、遂に多喜二は国家権力によって殺されてしまうのです。
 セキは自分の息子が悪い事などするわけがないと多喜二を信じ続けていました。そんな折、長女のチマに教会へと誘われます。その教会でイエスさまは何も悪いことをした訳ではないのに、磔にされ、酷い殺され方をされたことを知るのです。
 そして、イエスさまは苦しい息の中で、イエスさまを十字架につける人々を見て「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と自分を殺そうとしている人々を赦してくださいと言われるイエスさまの言葉に出会うのです。
 また、その教会の牧師に「ピエタ」を見せてもらい、「母親のマリアさまはどんなにつらかったべかなぁ」と涙を流し、息子多喜二を殺された恨みの心を赦しの心に「変容」させられていくのです。
 私たちもこれから迎える四旬節の時、このセキのように、自分の中の恨みの心を赦しの心に「変容」させてもらえるよう、イエスさまの十字架の姿を覚えながら過ごしていけるよう祈ることができればと思います。
                                       
信仰と俳句
竹内 輝

 俳人であった父の勧めで、20代のころから俳句を始めた。高浜虚子の孫にあたる稲畑汀子さん(現在朝日俳壇選者)が主宰する「ホトトギス」に投句していた。
 当時、芦屋の稲畑邸で、「ホトトギス」の若い俳句作家の育成を目的とした「野分会」の合宿が行われ、全国の若い俳人たちと句会や交わりをもったことが懐かしく思い出される。そのメンバーのなかから、現在、俳壇で活躍している俳人も生まれた。そのころは珍しい若い俳人ということで、どの句会に行っても大事にされ、俳句の先生方から随分と目をかけていただいた。とくに毎日新聞の俳句欄では、高校国語教科書にも句が掲載されている著名な山口青邨氏が私の句を度々入選に採ってくれた。はがきに年齢も記していたこともあり、作品の出来はともかく、青邨氏は若い私を励ます意図もあって、あえて私の句を採ってくれたのではないかと思う。
 20代前半に熱中した俳句であるが、教員になって仕事に追われるようになってく
ると、句会にも足がだんだんと遠のき、所属する俳誌への投句も終にやめてしまった。
 そして、それから40年近い長い中断。句作を再開したのは、ここ数年前である。再開といっても、ほそぼそとである。月に一度、現在会員となっている「香雨」「岬」という俳誌に7句を揃えて投句するのに精いっぱいである。句作力は20代の時より上達しているどころか、初心者の域のままである。この間のブランクがなければと後悔するばかりであるが、仕方がない。
 「老い」を感じる年齢となり、作る俳句も変わってきた。とくに最近は、信仰者として感じること、想うことを俳句に詠んでみたいと願うようになった。

絵硝子に待降節の光満つ 

リス族にリス語の聖書クリスマス

跪き旅人祈る聖夜ミサ

 昨年のクリスマスの頃にできた句である。1句目はみのり教会のクリスマス礼拝のときに、2句目、3句目は年末に訪れたヤンゴンでの吟行句。2句目のリス族はミャンマーの山岳部に住む少数民族である。3句目は、ヤンゴンには息を呑むような美しく荘厳なカソリック教会があり、その聖夜のミサにビルマ人に交じって祈る外国人の旅行者を詠んだ。
 按手礼受くる青年茨の芽 
 みのり教会で研修され、按手礼を受けた神学生を句に詠んだ。「茨の芽」という季語に、私なりの神学生への思いを込めた。俳誌「岬」に掲載したこの句に、クリスチャンではない俳人の方の次のような鑑賞文が添えられていた。
 ―「按手礼」とはキリスト教で、聖職任命の儀式のこと。この青年は聖職者となる儀式を受けたのだ。青年が聖職者として芽生えた時、窓越しに庭先を見ると、茨が芽吹いているのを見たのだ。イエスがゴルゴダ丘で十字架刑になった時、茨の冠をつけていたのだ。―
 私の拙い俳句が「祈り」にまで高められることを切に願いながら、これからも句作に励んでいきたいと思う。

3月の行事予定
3日(日)日曜礼拝、役員会、教職任按手式(東京教会)
6日(水)灰の水曜日、聖書に聴き、祈る会
7日(木)田原牧師滞在日
10日(日)日曜礼拝、女性会、男性会
13日(水)聖書に聴き、
    祈る会(20日~春休み、4月10日再開予定)
14日(木)田原牧師滞在日
16日(土)田原夕聖餐礼拝
17日(日)日曜礼拝(筑田牧師説教奉仕)、昼食会、
    お便りの集い
21日(木)教区総会(浜松教会)
23日(土)田原夕礼拝
24日(日)日曜礼拝
30日(土) 田原夕礼拝
31日(日)日曜礼拝

編集後記 
 3月は、一年のうちで一番わくわくする月ではないでしょうか。
 寒い日が過ぎ去り、日増しに暖かくなり、冬眠から目覚めた生き物が再び活動を始めます。枯れ草の中から、青々とした芽が吹き出てきます。梅の花や桜の花が次々に開いてきます。まさに、復活の時期です。イースターの意味が解る時期です。
 死んでいたものがよみがえります。これこそ、神のわざです。人がいくらがんばっても出来ないことです。科学の力でもまねはできません。天と地は、神の創造のわざを示します。                        




変容主日聖餐礼拝。20190303



今週の日曜日、豊橋礼拝所では変容主日聖餐礼拝を守りました。
礼拝後、ご覧の方々の聖餐訪問にお伺いしました。



明日から、四旬節に入ります。イエスさまのみ苦しみを覚えて、喜びの復活祭を迎えましょう。