2019年12月30日月曜日

主の顕現礼拝のご案内。20200105

主の顕現聖餐礼拝(1/5)は

野口勝彦牧師の


「東方で」

の説教で守られます。

どなたもご自由にご出席ください。



◆占星術の学者たちが訪れる
 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
マタイによる福音書2章1節~12節

2019年12月29日日曜日

降誕節第1主日礼拝。20191229


今年最後の礼拝を豊橋礼拝所で守りました。

礼拝後は喫茶店メードのサンドイッチと



石巻から届いた牡蠣のオリーブ漬けをいただき




大掃除をして、新年を迎える準備をしました。
神さまが与えて下さった2019年に感謝!

2019年12月25日水曜日

降誕節第1主日・新年礼拝のご案内。20191228・29、20200101

降誕節第1主日礼拝(12/28・29)は

野口勝彦牧師による

「ナザレの人と呼ばれる」



新年礼拝(1/1)は

野口勝彦牧師による

「最も小さい者」


の説教で守られます。

どなたもご自由にご出席ください。


◆エジプトに避難する
 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
◆ヘロデ、子供を皆殺しにする
さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」
◆エジプトから帰国する
ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

マタイによる福音書2章13節~23節

降誕祭燭火礼拝・降誕祭前夜燭火礼拝。20191223・24

今年のみのり教会は、12月22日・23日・24日と三日連続でクリスマスでした。


まずは22日の豊橋礼拝所での降誕祭聖餐礼拝


イエスさま降誕を聖餐礼拝を通して感謝し


礼拝後は出席者全員で恒例の記念撮影


そして、炊き立ての赤飯と持ち寄りの自慢の一品をおいしくいただき






それぞれの一年間を振り返った後は、お待ちかねの牧師主催のお楽しみビンゴ大会


今年は福岡から届いたお菓子を参加賞に、特別賞には被災地・石巻から届いたわかめを景品にビンゴ大会を楽しみました。



翌日の23日は田原礼拝所でのクリスマス・キャンドルサービス



キャンドルの中、イエスさまの降誕を讃美歌によって讃美し




それぞれご自慢の一品で、その喜びを分かち合いました。



そして、最後の24日は豊橋礼拝所でのクリスマスイブ・キャンドルサービス





キャンドルの灯のもと、讃美歌を讃美し、メッセージの後は、素晴らしい歌声の独唱によりイエスさまの降誕を待ち望み





礼拝後は信徒の方お手製のパウンドケーキなどでお茶のひと時を楽しみました。




クリスマスおめでとうございます!

2019年12月22日日曜日

《三遠地区使信 №1082》20191222「クリスマスプレゼント」

「クリスマスプレゼント」

主のご降誕をお祝いします。今日は待降節第4主日ですが、多くの教会で2010年代最後の降誕祭の礼拝を守っておられることだと思います。
 さて、毎年年末に公益財団法人日本漢字能力検定協会が発表する今年一年の世相を表す漢字に今年は「令」の字が選ばれました。その選ばれた理由として「新元号『令』和に新たな時代の希望を感じた一年。『令』和が日本最古の歌集・万葉集からの出典で、海外に Beautiful Harmony=美しい調和と説明されたことや、『令』の字が持つ意味・書き方にも注目が集まった。また、法 『令』改正、法『令』順守、警報発『令』、避難命『令』としても使われた年」が挙げられています。昨年の漢字が「災」で、その選ばれた理由が「全国的に地震、豪雨、台風、猛暑などの自然『災』害の脅威を痛感した一年。『災』害の経験から全国的に防『災』意識が高まり、多くの人が自助共助の大切さを再認識した年」でしたので、二年連続で災害に関する文字が選ばれたことになります。
そのような中、先日、松本教会員の方から台風19号による千曲川の氾濫によって被害を受けたりんごが送られてきました。その方は被災後、大学生を連れて被災したりんご園などでボランティア活動をされているということで、そのりんご園で水に浸かっていない出荷できないりんごがあるので送っても大丈夫ですかという問い合わせをいただきました。一昨年まで、長野・松本教会を牧会していた私は、テレビから被災のニュース映像が流れる度に、日毎、寒さが厳しくなる信州で、順調に復旧が進んでいるのか気になっていましたので、即答で、「是非、送ってほしい」とお願いをしました。そして14日・15日の礼拝の中で このりんごの経緯と被災地の復旧・復興の状況をお話しし、被災地を覚えてお祈りいだたけるようお願いをしました。また、りんご園の方へのカードへの署名もお願いしました。
そして、ちょうど、この原稿の締め切りの日(16)の朝、NHKの「あさイチ」では台風19号から2ケ月を経過した被災地の復旧・復興状況について特集を組んでいました。
それは、これらの事を、神さまが、降誕祭を教会でお祝いするその日に配られるこの使信を通じて、また、み子イエスさまを被災地にも送ってくださることを私たちに伝えてくださっているのです。そして、これこそが神さまから届けられる私たちへの最大のクリスマスプレゼントなのです。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
ヨハネによる福音書114

みのり教会 野口 勝彦



2019年12月16日月曜日

降誕祭燭火礼拝・降誕祭前夜燭火礼拝のご案内。20191223・24

降誕祭燭火礼拝(12/23 19時~ 田原礼拝所)
降誕祭前夜燭火礼拝(12/24 19時~ 豊橋礼拝所)

野口勝彦牧師による

「きよしこの夜

のメッセージで行われます。
どなたもご自由にご出席ください。
尚、降誕祭燭火礼拝(田原礼拝所)後、持ち寄りによる祝会が行われます。



 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
ルカによる福音書2章1節~20節




降誕祭聖餐礼拝のご案内。20191222


降誕祭聖餐礼拝(12/22)は

野口勝彦牧師による

「言(ことば)が肉となった」

の説教で守られます。

どなたもご自由にご出席ください。



◆言が肉となった
 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

ヨハネによる福音書1章1節~14節


2019年12月12日木曜日

被災りんごが届きました。20191211

本日、先日の台風19号で被災した長野市のりんごが届きました。


このりんごは、松本教会員の方がボランティア先で出荷ができないものを、被災地を覚えるために送っていただいたものです。ボランティア内容等は以下でご覧ください。


田原フェンス工事終了。20191205

 懸案であった田原礼拝所のご覧のブロック・万代塀


今年の夏には地震対策のためご覧の通り撤去され



今月、5日にはご覧の通り、新しいフェンスになり、教会の庭もすっきりしました。


2019年12月10日火曜日

待降節第3主日礼拝のご案内。2019121415

待降節第3主日礼拝(12/14・15)

野口勝彦牧師による

「この人」

の説教で守られます。

どなたもご自由にご出席ください。




ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
マタイによる福音書11章 2節~11節

クリスマス案内。20191222・23・24



2019年12月3日火曜日

待降節第2主日礼拝のご案内。2019120708

待降節第2主日礼拝(12/7・8)

野口勝彦牧師による

「荒野に現れる」

の説教で守られます。

どなたもご自由にご出席ください。




◆洗礼者ヨハネ、教えを宣べる
 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。
マタイによる福音書3章1節~12 節


『ともしび』再開132号。20191201

「目を覚ましていなさい」


「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰
って来られるのか、あなたがたには分からないからである」
マタイによる福音書24章42節
日本福音ルーテルみのり教会牧師 野口勝彦

  先月号で、私は、葬儀の最後、つまり出棺の時、牧師として「山上の説教」と呼ばれるみ言葉を唱えることにしていることを記しましたが、先月、そのみ言葉を2度、唱えました。1度目は11月10日に天に召されたA兄、そして、2度目は11月19日に帰天されたK兄です。お二人とも長く病院に入院されていましたが、クリスマスを迎えることができると私は思い、田原礼拝所(教会)出身の引退牧師である小嶋三義牧師が作られた「イエスと母マリア」のキリエ(切り絵)を用意しました。
 この『ともしび132号』が発行される今日、そのクリスマスを迎えるための準備期間である待降節が始まりました。今年は新しい元号、令和で世の中が騒がしかったですが、キリスト教の世界はもちろん西暦です。今年は2010年代最後の年、1ケ月後には2020年代が始まります。
 教会の暦では、今日から世の中より一足先に新しい年を迎え、一足遅く、クリスマスの季節を迎えたことになります。
 この区切りの年から、私たちが使用している聖書日課も新しい聖書日課となりました。旧聖書日課では、今日の主日の福音書のみ言葉は「エルサレムに迎えられる」と小見出しの付けられたマタイによる福音書21章1節〜11節ですが、今日から用いる新しい日課ではマタイによる福音書24章36節〜44節「目を覚ましていなさい」となっています。
  このみ言葉は、終末の預言、つまり、先週の聖霊降臨後最終主日のみ言葉とも言えるようなみ言葉です。
 ではなぜ、このようなみ言葉が、教会の暦では新しい年のはじめ、つまり、イエスさま誕生を待ち望むこのはじめの時に与えられているのでしょうか。
終末、それは、救いが成就する時、つまり、救いが到来する時です。今日から始まる待降節、それはアドヴェントとも呼ばれ、まさに、私たちの救い主であるイエスさまが到来することを待ち望む時です。その救いが私たちに訪れる時に、「目を覚ましていなさい」と言われるのです。
 「目を覚ましている」それは、見ていることです。見ていること、では一体、私たちは何を見ているのでしょうか。
 それは、今、自分が生きているこの世の中のことであり、自らの生き方です。
 私たちは、新しい年を迎え、そして、私たちの救い主の誕生を待ち望むこの時、もう一度、この世の中のことを見、自分の生き方を見つめ直すために「目を覚ましている」ことができるように、そして、私たちに与えられる救い主イエスさまの誕生と2020年代を迎える事ができるように、また、天に召されたお二人を覚えて祈ることができればと思います。

希 望            
長谷川泰子

 先々月の10月8日は、亡きR子の45才の誕生日でした。主人と私は「おめでとう」を言いたくて、墓地に出かけました。まだ、リンドウの花がきれいに咲いていましたのでコスモスを添えてきました。
 お昼が過ぎてから、三女のMから花かごが届きました。「Rちゃん 誕生日おめでとう」のメッセ―ジが付いていました。お礼のラインをすると、Mが「フェイスブックにるっちゃんの誕生日のお祝いのメッセージがたくさん寄せられているから写メールでお母さんのスマホに送るネ」と言ってくれました。まもなく、着信。そこには、かつての勤め先の友人たち8人まとめてのメッセージ、そして、高校の友人、R子の姉、義兄、妹、又、懐かしいR子の出張先での楽しそうな写真等、それら見ているうちに涙が溢れてきました。次第に大泣きになった私の耳にR子の「ウフフフ」とも「アハハハ」ともとれる笑い声が聞こえたのです。私はハッとして耳をすませました。しかし、その声はもうしませんでした。 
 そら耳だったのでしょうか? でも確かに聞こえたのです。
 R子の笑い声が・・まるで泣いている私のじゃまをするかのように・・・。そうです。R子は私を励ましてくれたのです。そして、皆に誕生日を祝福してもらって嬉しかったのです。そう思うことにしました。私の耳も遠くなってきたし、R子を思う心がそうさせたのかもしれません。けれど、このことは私には無意味ではありませんでした。神様はことあるごとに弱い私に色々なことを教えてくださいます。これからもずっと共にいてR子の声を、そして、神様の声を聞かせてください。

内村鑑三における宗教思想 
④ 仏教と基督教について     
長谷川勝義

  鑑三は、全集32 巻「仏教対基督教」の中で、仏教と基督教の類似点や相違点を的確に捉えている。基督教で言う神の愛と仏教で言う仏の慈悲は、どちらも人々やすべての生ある者に対するいたわりの心であって、共通の教えであり、仏教と基督教は一致できる宗教であって融合も可能であると考える宗教者や学者もこれまでに数多くいた。しかし、鑑三は、この考えを一蹴している。根本的に異なることを指摘する。
  「日本に仏教がある。しかし、基督教はない。そして仏教に基督教に似たる多くの点がある。浄土門の如き基督教の仏教化したるものであるかの如き観がある。真言宗はネストリ
ウス派の基督教に仏教の名を附したる物に過ぎないとの説を立てる西洋の学者さえある。かかる次第であれば日本に於ける仏耶両教の融合は望み無き事業ではない。すでにある仏教を基督教となすを得れば、これ日本における基督教伝道の最善の道であって、わが同胞の教化を願うものは何人も賛成すべき事業であると。そう唱える人が今日まで幾人もあった。そして、今猶ある。これははなはだ人を引きつける企てであって、最も耳寄りな話である。」「しかしながら、事実はそう容易くないのである。我らは仏教対基督教について仏教学者の側より多くのことを聞かされた。曰く、仏教は無神論であるのに対して基督教は有神論である。よしまた、仏教が神に類するものを認めるにしても、そのインドの宗教たるの本質に違わずして万有神教であって、基督教の一神教とはその根本の思想を異にする。さらに、また、仏教は人が自ら己を救うための宗教であるに対して基督教は神が人を救い給う宗教である。仏教も他力を教えないではないが、それは釈迦本来の教えではないという。いずれにしても、仏教は広い宗教であって、その内にどんな宗教もあるといいえよう。仏教これ宗教の別名であって、基督教はこれを仏教の一派と見る方が仏教本来の精神に叶うであろう。」
 このように、仏教と基督教の類似点は、これまで多くの学者が指摘するところであった。
 真言宗で空海が主仏とした大日如来は、天地万物の創造主、それを支配する仏であり、これを基督教の神としても理解できるものであった。また、阿弥陀仏も釈迦仏も、憐れみに富み、人間をいとおしみ、救いをもたらそうとするもので、基督教の神に置き換えられるものである。なぜ、これほどの類似した教えが両方に見られのかが不思議でさえする。歴史的にどこかで、両者は交わっていたとする学者も多いのである。
  しかし、内村は、両者の厳然たる違いを指摘する。それは、一つは、神の違いであって、万物が神ではなく、万物を創造された厳然たる唯一の神を基督教は前提とする。人間もその他の生物も岩やその他の自然物もすべて神による被造物である。阿弥陀仏や釈迦仏は人間が仏となったもの、つまり神格化されたもので、キリスト教の神とは全く異なるもので
ある。
 「しからば仏教基督教の相違はどこにあるかと言うに、枚挙するいとまあらずといえども、主として愛の観念においてである。基督教に最も近いと称せられる浄土門の仏教において、弥陀の他力本願が唱えられるといえども、之を基督の十字架上の罪の贖いと比べてその間に天地の差のあることを認めざるを得ない。弥陀の慈悲が慈悲のための慈悲であるのに対して、基督の愛は義に基ける愛である。基督教の神は義の神であって、義によらざれば人の罪を赦さず、義によらざれば救いを施し給わない。その意味において弥陀の慈悲は単純であるが、基督の御父なる真の神の愛は複雑である。弥陀は云う。『赦す、赦す、我は汝を助けずしては止まずというその誓願を信ぜよ、しかして救われよ』と。基督教の神は言う。『汝イエス基督を信ぜよ。しからば救われん。信ぜざれば滅ぶべし』と。その故、如何となればキリストにおいてのみ神の義が完全に行なわれたからである。救いの目的は人をして義たらしむるにある。基督の愛は義に拠る義のための愛であって、厳密なる義を離れて基督の救いは無いのである。」
  「論より証拠である。仏教国に義がないのである。あってもごく微弱である。愛というは、多くは『お情け』である。許しと言うは『勘弁』である。『神はその義の故に我らの罪を赦し給う。』と言うが如きは仏教信者には解し得ないのである。そして義が無くして国は 滅ぶのである。すべてが情実化して、法律はその機能を失うのである。仏教国に強健なる国家なきはこの理由をもって説明することができる。幸いにして日本には仏教以外に武士道があって、仏教のこの大欠点を補い来りしが故に今日あるを得たのである。然れども仏教の感化が非常に強く、為に正義を愛するの念が弱くして、強烈なる西洋文明に接して社会国家の根底が揺らぎ出したのである。ここにおいてか、日本はイザヤ、エレミヤ、エゼキエルをもって始まり、イエスに至りてその絶頂に達せし、神の義の教えを強く要求するのである。」

《12月の予定》


□12月1日(日)   日曜礼拝(待降節第1主日)、役員会
□   3日(火)   田原フェンス工事
□   5日(木) 田原牧師滞在日、田原フェンス工事 
□   7日(土) 田原夕礼拝
□   8日(日) 日曜礼拝、女性会、男性会
□  11日(水)   聖書に聴き祈る会(18日~1月8日:冬休み)
 12日(木)   田原牧師滞在日
□  14日(土) 田原夕礼拝
□  15日(日) 日曜礼拝、祈祷会、お便りの集い
 19日(木)   田原牧師滞在日
□  22日(日) 日曜礼拝(降誕祭礼拝)、祝会
□  23日(月) 田原燭火礼拝、祝会
 24日(火)   豊橋降誕前夜燭火礼拝
□  28日(土) 田原夕礼拝
□  29日(日) 日曜礼拝、大掃除
□1月 1日(水) 新年礼拝

編集後記
 もう、今年最後の月となりました。よきクリスマスが迎えられますように。平和な世界が続きますようにと祈ります。