って来られるのか、あなたがたには分からないからである」
マタイによる福音書24章42節
日本福音ルーテルみのり教会牧師 野口勝彦
先月号で、私は、葬儀の最後、つまり出棺の時、牧師として「山上の説教」と呼ばれるみ言葉を唱えることにしていることを記しましたが、先月、そのみ言葉を2度、唱えました。1度目は11月10日に天に召されたA兄、そして、2度目は11月19日に帰天されたK兄です。お二人とも長く病院に入院されていましたが、クリスマスを迎えることができると私は思い、田原礼拝所(教会)出身の引退牧師である小嶋三義牧師が作られた「イエスと母マリア」のキリエ(切り絵)を用意しました。
この『ともしび132号』が発行される今日、そのクリスマスを迎えるための準備期間である待降節が始まりました。今年は新しい元号、令和で世の中が騒がしかったですが、キリスト教の世界はもちろん西暦です。今年は2010年代最後の年、1ケ月後には2020年代が始まります。
教会の暦では、今日から世の中より一足先に新しい年を迎え、一足遅く、クリスマスの季節を迎えたことになります。
この区切りの年から、私たちが使用している聖書日課も新しい聖書日課となりました。旧聖書日課では、今日の主日の福音書のみ言葉は「エルサレムに迎えられる」と小見出しの付けられたマタイによる福音書21章1節〜11節ですが、今日から用いる新しい日課ではマタイによる福音書24章36節〜44節「目を覚ましていなさい」となっています。
このみ言葉は、終末の預言、つまり、先週の聖霊降臨後最終主日のみ言葉とも言えるようなみ言葉です。
ではなぜ、このようなみ言葉が、教会の暦では新しい年のはじめ、つまり、イエスさま誕生を待ち望むこのはじめの時に与えられているのでしょうか。
終末、それは、救いが成就する時、つまり、救いが到来する時です。今日から始まる待降節、それはアドヴェントとも呼ばれ、まさに、私たちの救い主であるイエスさまが到来することを待ち望む時です。その救いが私たちに訪れる時に、「目を覚ましていなさい」と言われるのです。
「目を覚ましている」それは、見ていることです。見ていること、では一体、私たちは何を見ているのでしょうか。
それは、今、自分が生きているこの世の中のことであり、自らの生き方です。
私たちは、新しい年を迎え、そして、私たちの救い主の誕生を待ち望むこの時、もう一度、この世の中のことを見、自分の生き方を見つめ直すために「目を覚ましている」ことができるように、そして、私たちに与えられる救い主イエスさまの誕生と2020年代を迎える事ができるように、また、天に召されたお二人を覚えて祈ることができればと思います。
希 望
長谷川泰子
先々月の10月8日は、亡きR子の45才の誕生日でした。主人と私は「おめでとう」を言いたくて、墓地に出かけました。まだ、リンドウの花がきれいに咲いていましたのでコスモスを添えてきました。
お昼が過ぎてから、三女のMから花かごが届きました。「Rちゃん 誕生日おめでとう」のメッセ―ジが付いていました。お礼のラインをすると、Mが「フェイスブックにるっちゃんの誕生日のお祝いのメッセージがたくさん寄せられているから写メールでお母さんのスマホに送るネ」と言ってくれました。まもなく、着信。そこには、かつての勤め先の友人たち8人まとめてのメッセージ、そして、高校の友人、R子の姉、義兄、妹、又、懐かしいR子の出張先での楽しそうな写真等、それら見ているうちに涙が溢れてきました。次第に大泣きになった私の耳にR子の「ウフフフ」とも「アハハハ」ともとれる笑い声が聞こえたのです。私はハッとして耳をすませました。しかし、その声はもうしませんでした。
そら耳だったのでしょうか? でも確かに聞こえたのです。
R子の笑い声が・・まるで泣いている私のじゃまをするかのように・・・。そうです。R子は私を励ましてくれたのです。そして、皆に誕生日を祝福してもらって嬉しかったのです。そう思うことにしました。私の耳も遠くなってきたし、R子を思う心がそうさせたのかもしれません。けれど、このことは私には無意味ではありませんでした。神様はことあるごとに弱い私に色々なことを教えてくださいます。これからもずっと共にいてR子の声を、そして、神様の声を聞かせてください。
内村鑑三における宗教思想
④ 仏教と基督教について
長谷川勝義
鑑三は、全集32 巻「仏教対基督教」の中で、仏教と基督教の類似点や相違点を的確に捉えている。基督教で言う神の愛と仏教で言う仏の慈悲は、どちらも人々やすべての生ある者に対するいたわりの心であって、共通の教えであり、仏教と基督教は一致できる宗教であって融合も可能であると考える宗教者や学者もこれまでに数多くいた。しかし、鑑三は、この考えを一蹴している。根本的に異なることを指摘する。
「日本に仏教がある。しかし、基督教はない。そして仏教に基督教に似たる多くの点がある。浄土門の如き基督教の仏教化したるものであるかの如き観がある。真言宗はネストリ
ウス派の基督教に仏教の名を附したる物に過ぎないとの説を立てる西洋の学者さえある。かかる次第であれば日本に於ける仏耶両教の融合は望み無き事業ではない。すでにある仏教を基督教となすを得れば、これ日本における基督教伝道の最善の道であって、わが同胞の教化を願うものは何人も賛成すべき事業であると。そう唱える人が今日まで幾人もあった。そして、今猶ある。これははなはだ人を引きつける企てであって、最も耳寄りな話である。」「しかしながら、事実はそう容易くないのである。我らは仏教対基督教について仏教学者の側より多くのことを聞かされた。曰く、仏教は無神論であるのに対して基督教は有神論である。よしまた、仏教が神に類するものを認めるにしても、そのインドの宗教たるの本質に違わずして万有神教であって、基督教の一神教とはその根本の思想を異にする。さらに、また、仏教は人が自ら己を救うための宗教であるに対して基督教は神が人を救い給う宗教である。仏教も他力を教えないではないが、それは釈迦本来の教えではないという。いずれにしても、仏教は広い宗教であって、その内にどんな宗教もあるといいえよう。仏教これ宗教の別名であって、基督教はこれを仏教の一派と見る方が仏教本来の精神に叶うであろう。」
このように、仏教と基督教の類似点は、これまで多くの学者が指摘するところであった。
真言宗で空海が主仏とした大日如来は、天地万物の創造主、それを支配する仏であり、これを基督教の神としても理解できるものであった。また、阿弥陀仏も釈迦仏も、憐れみに富み、人間をいとおしみ、救いをもたらそうとするもので、基督教の神に置き換えられるものである。なぜ、これほどの類似した教えが両方に見られのかが不思議でさえする。歴史的にどこかで、両者は交わっていたとする学者も多いのである。
しかし、内村は、両者の厳然たる違いを指摘する。それは、一つは、神の違いであって、万物が神ではなく、万物を創造された厳然たる唯一の神を基督教は前提とする。人間もその他の生物も岩やその他の自然物もすべて神による被造物である。阿弥陀仏や釈迦仏は人間が仏となったもの、つまり神格化されたもので、キリスト教の神とは全く異なるもので
ある。
「しからば仏教基督教の相違はどこにあるかと言うに、枚挙するいとまあらずといえども、主として愛の観念においてである。基督教に最も近いと称せられる浄土門の仏教において、弥陀の他力本願が唱えられるといえども、之を基督の十字架上の罪の贖いと比べてその間に天地の差のあることを認めざるを得ない。弥陀の慈悲が慈悲のための慈悲であるのに対して、基督の愛は義に基ける愛である。基督教の神は義の神であって、義によらざれば人の罪を赦さず、義によらざれば救いを施し給わない。その意味において弥陀の慈悲は単純であるが、基督の御父なる真の神の愛は複雑である。弥陀は云う。『赦す、赦す、我は汝を助けずしては止まずというその誓願を信ぜよ、しかして救われよ』と。基督教の神は言う。『汝イエス基督を信ぜよ。しからば救われん。信ぜざれば滅ぶべし』と。その故、如何となればキリストにおいてのみ神の義が完全に行なわれたからである。救いの目的は人をして義たらしむるにある。基督の愛は義に拠る義のための愛であって、厳密なる義を離れて基督の救いは無いのである。」
「論より証拠である。仏教国に義がないのである。あってもごく微弱である。愛というは、多くは『お情け』である。許しと言うは『勘弁』である。『神はその義の故に我らの罪を赦し給う。』と言うが如きは仏教信者には解し得ないのである。そして義が無くして国は 滅ぶのである。すべてが情実化して、法律はその機能を失うのである。仏教国に強健なる国家なきはこの理由をもって説明することができる。幸いにして日本には仏教以外に武士道があって、仏教のこの大欠点を補い来りしが故に今日あるを得たのである。然れども仏教の感化が非常に強く、為に正義を愛するの念が弱くして、強烈なる西洋文明に接して社会国家の根底が揺らぎ出したのである。ここにおいてか、日本はイザヤ、エレミヤ、エゼキエルをもって始まり、イエスに至りてその絶頂に達せし、神の義の教えを強く要求するのである。」
《12月の予定》
□12月1日(日) 日曜礼拝(待降節第1主日)、役員会
□ 3日(火) 田原フェンス工事
□ 5日(木) 田原牧師滞在日、田原フェンス工事
□ 7日(土) 田原夕礼拝
□ 8日(日) 日曜礼拝、女性会、男性会
□ 11日(水) 聖書に聴き祈る会(18日~1月8日:冬休み)
□ 12日(木) 田原牧師滞在日
□ 14日(土) 田原夕礼拝
□ 15日(日) 日曜礼拝、祈祷会、お便りの集い
□ 19日(木) 田原牧師滞在日
□ 22日(日) 日曜礼拝(降誕祭礼拝)、祝会
□ 23日(月) 田原燭火礼拝、祝会
□ 24日(火) 豊橋降誕前夜燭火礼拝
□ 28日(土) 田原夕礼拝
□ 29日(日) 日曜礼拝、大掃除
□1月 1日(水) 新年礼拝
もう、今年最後の月となりました。よきクリスマスが迎えられますように。平和な世界が続きますようにと祈ります。
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