宗教改革主日礼拝 (10/31)は
「信仰の法則」
キリスト教ルター派教会:1517年にマルチン・ルターの宗教改革によりドイツで誕生したルーテル教会は、ドイツだけでなく北欧にも広がり、国民教会となりました。その後、アメリカにも渡り、更にアジア、アフリカ、ラテン・アメリカなどに至って今日全世界に存在するようになっています。2017年10月31日に宗教改革から500年を迎えました。
宗教改革主日礼拝 (10/31)は
「祈りあえる喜び、一枚のハガキ」
みのり・岡崎教会の週報には毎週、「今週の祈りの課題」の一つとして「家庭礼拝のための聖書日課」https://seishonikka.org/に掲載してある教会の祈りを掲載しています。10月10日は日本福音ルーテル保谷教会でした。保谷教会は、私が神学校2年・3年時、熊本教会に宣教研修に行く前まで教会実習でお世話になった教会でしたので、懐かしくなり岡崎教会の礼拝後に皆さんに、保谷教会時代のお話を少しさせていただきました。
その岡崎教会からの帰り際に、ある方から新しい女性会連盟会報を見せていただきました。何気にその裏表紙を見てみると今年、召天された方々のお名前が掲載され、その中に、鹿児島教会の梅北美智子姉のお名前を見つけました。
梅北姉とは、私が九州教区で牧会している時に、博多教会で行われた九州セミナリオでお会いしたのが初めてで、その思い出を九州教区報*1に「以前に受けたセミナリオのテキストや提出したレポートを引っ張り出して読み返していると、いろいろなことが思い出されます」「福岡へは朝5時おきで1番のバスで行き、深夜に鹿児島に着くバスで帰るというちょっとハードなスケジュールでしたが、それが苦にならないほど楽しく有意義な時間を過ごすことができました。普段はできない学びを集中してできたことも、一緒に学んだ方々との出会いも貴重な宝です」と記されています。
その梅北姉は、20年に亘り先の聖書日課に掲載された教会に、毎日、祈りの葉書を出されていました。そのことを女性会連盟会報*2に次のように書かれています。
「『祈りのハガキ』 について書いてほしいと言われ、15年前の春の朝のことを思い起こしています」「4月に入って間もないある朝、いつになく早く目が覚めました。引きずられるように机の前に座り、聖書日課を読んでいるうちに1枚のハガキを思い出しました。それは数年前、教会のボードに貼られていたM先生からの『祈りのハガキ』でした。役立たずの私にもこれならできるかもとぼんやり思いました。ありあわせのハガキに一言書いて(何を書いたかは覚えていません)出しました。それから毎日、 いつもは朝寝坊の私がなぜか早くに眼覚め、聖書と日課を読み、黙想し祈り、ハガキを書き、1時間ほどがあっという間に過ぎました。何日か経ってある教会からー通のハガキが届きました。『あなたのためにもお沂りしています』との言葉に体が震えるほどの喜びが湧いてきました」「正直こんなハガキを出していいのか、下手な字で勝手なことを書いて失礼ではないのかと今も思います、それでも、日々み言葉に養われ、多くの方の祈りに支えられて、今日も私は元気でいることができ、ハガキを書くことができます。ハガキを受け取ってくださる皆様に感謝します。主にあってたくさんの方と結はれていることにも心から感謝します。ありがとうございます」
来月7日は全聖徒主日です。これまで、毎日、各教会のことを祈り続けてくださった梅北美智子姉を覚えて、今年の全聖徒礼拝を迎えることができればと思います。
*1:2011年9月発行一部抜粋 *2:2014年10月発行一部抜粋
みのり・岡崎 野口勝彦
聖霊降臨後第22主日礼拝 (10/23・24)は
聖霊降臨後第21主日礼拝 (10/16・17)は
聖霊降臨後第20主日礼拝 (10/9・10)は
「幸せなら手をたたこう」
今日は10月最初の主日、緊急事態宣言が予定通り解除され、徐々に日常に戻りつつある中で、礼拝が守られていることを祈りながらこの使信を書いています。
このような時にこそ、歌いたい歌があります。その歌は「幸せなら手をたたこう」。皆さんもよくご存知の故・坂本九さんが1964年(昭和34年)に歌ってヒットした歌です。当時、発売されたレコードには作詞者不詳と印刷されていました。その後、この歌の作詞者が、1959年4月から2カ月間、農村復興ボランティアとしてYMCA(キリスト教青年会)からフィリピン北部ルソン島ダグパン市に派遣された木村利人さんであることが判明しました。当時、早稲田大学の大学院生だった彼はその経験を「ぼくの本当の戦争体験の始まりだった」と振り返ります。終戦から14年後のフィリピンは、根強い反日感情と戦争の傷痕が残っており、彼はタガログ語で「日本人、死ね」と言われ、人に会うたびに「『家族が日本兵に殺された』と聞かされ、黙るしかなかった」と言います。戦争の被害者意識で凝り固まっていた彼は、自分の無知を恥じ、罪悪感を覚え、「アジアで正義の戦いをしていると教わっていたが、間違っていた。加害者だったと初めて知った」と言います。
彼は、現地の同世代のボランティア仲間と、地域になかったトイレの設置などを行い、朝と夜の礼拝で聖書を読み、平和について語り合ったそうです。滞在期間終盤のある夜、現地のボランティア仲間の一人が彼に「日本人を殺してやろうと思っていたが、間違っていた。過去を許し、戦争をしない世界をつくろう」と言われ、彼はその言葉に感極まり、手を取り合って涙したそうです。
そして、その夜、礼拝で「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ」(詩47)を仲間と一緒に朗読した彼は、この聖句に友情を築けた喜びが表わされていると感じ、現地の子どもたちが歌っていた民謡のメロディーに、この聖句から歌詞のヒントを得て、この歌を作詞したのです。
彼が、この歌詞の中で特にこだわったのが「態度でしめそう」の部分でした。「幸せなら態度でしめそうよ」の歌詞は、12番まですべてに登場します。彼は、日本人が行ったことを決して忘れないが、人間として尊重し、受け入れてくれた現地の人々が「態度で示してくれた」と感じた感謝の意を歌詞に込めたそうです。
その彼は、1970年代後半、人間の尊厳を守る社会を作ることでフィリピンの人に応えたいとの思いから学問の枠を超え命に関わるあらゆる問題を考えるバイオエシックス(生命倫理)という分野を立ち上げ、「患者は本当のことを知る必要がある」とインフォームドコンセントの普及にも尽力しました。彼は、利人(ドイツ語で光の意味)の名の通り、まさにこの世の「光」としての働きを今も続けられています。
このワークキャンプは今も全国のYMCAで行われています。私も、団長として参加予定でしたが、神学校入学により実現はしませんでした。
みのり・岡崎 野口勝彦