2021年10月24日日曜日

宗教改革主日礼拝のご案内。20211031

   宗教改革主日礼拝  (10/31)は


野口勝彦牧師の

「信仰の法則

の説教で守られます。


愛知県には当面の間、「警戒領域」での感染防止対策が要請されています。礼拝は、感染防止のための新しい生活様式に従った形(礼拝短縮・着席・讃美歌制限・マスク着用・手指消毒・換気・加湿等)で行います。基礎疾患等によりご心配な方はご無理をされないでください。尚、今後の感染状況等の変化によっては、礼拝休止等になることもあります。


 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
ローマの信徒への手紙3章19節~28節







《三遠地区使信 №1178》20211024 「祈りあえる喜び、一枚のハガキ」 

 「祈りあえる喜び、一枚のハガキ」  

   みのり・岡崎教会の週報には毎週、「今週の祈りの課題」の一つとして「家庭礼拝のための聖書日課」https://seishonikka.org/に掲載してある教会の祈りを掲載しています。10月10日は日本福音ルーテル保谷教会でした。保谷教会は、私が神学校2年・3年時、熊本教会に宣教研修に行く前まで教会実習でお世話になった教会でしたので、懐かしくなり岡崎教会の礼拝後に皆さんに、保谷教会時代のお話を少しさせていただきました。

   その岡崎教会からの帰り際に、ある方から新しい女性会連盟会報を見せていただきました。何気にその裏表紙を見てみると今年、召天された方々のお名前が掲載され、その中に、鹿児島教会の梅北美智子姉のお名前を見つけました。

   梅北姉とは、私が九州教区で牧会している時に、博多教会で行われた九州セミナリオでお会いしたのが初めてで、その思い出を九州教区報*1に「以前に受けたセミナリオのテキストや提出したレポートを引っ張り出して読み返していると、いろいろなことが思い出されます」「福岡へは朝5時おきで1番のバスで行き、深夜に鹿児島に着くバスで帰るというちょっとハードなスケジュールでしたが、それが苦にならないほど楽しく有意義な時間を過ごすことができました。普段はできない学びを集中してできたことも、一緒に学んだ方々との出会いも貴重な宝です」と記されています。

   その梅北姉は、20年に亘り先の聖書日課に掲載された教会に、毎日、祈りの葉書を出されていました。そのことを女性会連盟会報*2に次のように書かれています。

 「『祈りのハガキ』 について書いてほしいと言われ、15年前の春の朝のことを思い起こしています」「4月に入って間もないある朝、いつになく早く目が覚めました。引きずられるように机の前に座り、聖書日課を読んでいるうちに1枚のハガキを思い出しました。それは数年前、教会のボードに貼られていたM先生からの『祈りのハガキ』でした。役立たずの私にもこれならできるかもとぼんやり思いました。ありあわせのハガキに一言書いて(何を書いたかは覚えていません)出しました。それから毎日、 いつもは朝寝坊の私がなぜか早くに眼覚め、聖書と日課を読み、黙想し祈り、ハガキを書き、1時間ほどがあっという間に過ぎました。何日か経ってある教会からー通のハガキが届きました。『あなたのためにもお沂りしています』との言葉に体が震えるほどの喜びが湧いてきました」「正直こんなハガキを出していいのか、下手な字で勝手なことを書いて失礼ではないのかと今も思います、それでも、日々み言葉に養われ、多くの方の祈りに支えられて、今日も私は元気でいることができ、ハガキを書くことができます。ハガキを受け取ってくださる皆様に感謝します。主にあってたくさんの方と結はれていることにも心から感謝します。ありがとうございます」

 来月7日は全聖徒主日です。これまで、毎日、各教会のことを祈り続けてくださった梅北美智子姉を覚えて、今年の全聖徒礼拝を迎えることができればと思います。

*1:2011年9月発行一部抜粋  *2:2014年10月発行一部抜粋 

  みのり・岡崎 野口勝彦




2021年10月18日月曜日

聖霊降臨後第22主日礼拝のご案内。2021102324

             聖霊降臨後第22主日礼拝  (10/23・24)は


野口勝彦牧師の

「あなたの信仰

の説教で守られます。


愛知県には当面の間、「警戒領域」での感染防止対策が要請されています。礼拝は、感染防止のための新しい生活様式に従った形(礼拝短縮・着席・讃美歌制限・マスク着用・手指消毒・換気・加湿等)で行います。基礎疾患等によりご心配な方はご無理をされないでください。尚、今後の感染状況等の変化によっては、礼拝休止等になることもあります。


 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
マルコによる福音書10章46節~52



2021年10月12日火曜日

聖霊降臨後第21主日礼拝のご案内。2021101617

         聖霊降臨後第21主日礼拝  (10/16・17)は


野口勝彦牧師の

「多くの人の身代金として

の説教で守られます。


愛知県には「厳重警戒措置」が17日(日)まで発出されています。礼拝は、感染防止のための新しい生活様式に従った形(礼拝短縮・着席・讃美歌制限・マスク着用・手指消毒・換気・加湿等)で行います。基礎疾患等によりご心配な方はご無理をされないでください。尚、今後の感染状況等の変化によっては、礼拝休止等になることもあります。


 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
マルコによる福音書10章35節~45節



2021年10月4日月曜日

聖霊降臨後第20主日礼拝のご案内。202110910

                    聖霊降臨後第20主日礼拝  (10/9・10)は


野口勝彦牧師の

「あなたに欠けているもの

の説教で守られます。


愛知県には「厳重警戒措置」が17日(日)まで発出されています。礼拝は、感染防止のための新しい生活様式に従った形(礼拝短縮・着席・讃美歌制限・マスク着用・手指消毒・換気・加湿等)で行います。基礎疾患等によりご心配な方はご無理をされないでください。尚、今後の感染状況等の変化によっては、礼拝休止等になることもあります。



イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
マルコによる福音書10章17節~31節


 

《三遠地区使信 №1175》20211003「幸せなら手をたたこう」

  「幸せなら手をたたこう」      

 今日は10月最初の主日、緊急事態宣言が予定通り解除され、徐々に日常に戻りつつある中で、礼拝が守られていることを祈りながらこの使信を書いています。

   このような時にこそ、歌いたい歌があります。その歌は「幸せなら手をたたこう」。皆さんもよくご存知の故・坂本九さんが1964年(昭和34年)に歌ってヒットした歌です。当時、発売されたレコードには作詞者不詳と印刷されていました。その後、この歌の作詞者が、1959年4月から2カ月間、農村復興ボランティアとしてYMCA(キリスト教青年会)からフィリピン北部ルソン島ダグパン市に派遣された木村利人さんであることが判明しました。当時、早稲田大学の大学院生だった彼はその経験を「ぼくの本当の戦争体験の始まりだった」と振り返ります。終戦から14年後のフィリピンは、根強い反日感情と戦争の傷痕が残っており、彼はタガログ語で「日本人、死ね」と言われ、人に会うたびに「『家族が日本兵に殺された』と聞かされ、黙るしかなかった」と言います。戦争の被害者意識で凝り固まっていた彼は、自分の無知を恥じ、罪悪感を覚え、「アジアで正義の戦いをしていると教わっていたが、間違っていた。加害者だったと初めて知った」と言います。

 彼は、現地の同世代のボランティア仲間と、地域になかったトイレの設置などを行い、朝と夜の礼拝で聖書を読み、平和について語り合ったそうです。滞在期間終盤のある夜、現地のボランティア仲間の一人が彼に「日本人を殺してやろうと思っていたが、間違っていた。過去を許し、戦争をしない世界をつくろう」と言われ、彼はその言葉に感極まり、手を取り合って涙したそうです。

   そして、その夜、礼拝で「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ」(詩47)を仲間と一緒に朗読した彼は、この聖句に友情を築けた喜びが表わされていると感じ、現地の子どもたちが歌っていた民謡のメロディーに、この聖句から歌詞のヒントを得て、この歌を作詞したのです。

    彼が、この歌詞の中で特にこだわったのが「態度でしめそう」の部分でした。「幸せなら態度でしめそうよ」の歌詞は、12番まですべてに登場します。彼は、日本人が行ったことを決して忘れないが、人間として尊重し、受け入れてくれた現地の人々が「態度で示してくれた」と感じた感謝の意を歌詞に込めたそうです。

 その彼は、1970年代後半、人間の尊厳を守る社会を作ることでフィリピンの人に応えたいとの思いから学問の枠を超え命に関わるあらゆる問題を考えるバイオエシックス(生命倫理)という分野を立ち上げ、「患者は本当のことを知る必要がある」とインフォームドコンセントの普及にも尽力しました。彼は、利人(ドイツ語で光の意味)の名の通り、まさにこの世の「光」としての働きを今も続けられています。

   このワークキャンプは今も全国のYMCAで行われています。私も、団長として参加予定でしたが、神学校入学により実現はしませんでした。

みのり・岡崎 野口勝彦