2019年2月26日火曜日

変容主日聖餐礼拝のご案内。20190303

変容主日聖餐礼拝(3/3)は

野口勝彦牧師による

「変えられる」

の説教で守られます。
どなたもご自由にご出席ください。



この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。
ルカによる福音書9章28節~36節

2019年2月18日月曜日

顕現節第8主日礼拝のご案内。20190223・24

顕現節第8主日礼拝(2/23・24)は

野口勝彦牧師による

「絶対的な信頼」

の説教で守られます。
どなたもご自由にご出席ください。




イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。 わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。
ルカによる福音書7章1 節~10節


《三遠地区使信 №1038》20190217「神は沈黙していたのか」

神は沈黙していたのか 

先日、信徒の方から青少年読書感想文県コンクール高校の部・知事賞を受賞した作品を掲載した新聞記事をいただきました。
その作品の冒頭は次のように始まっています。「神(デウス)さまはなして助けにこられんとやろうか。神さまはなしてこげんむごか目ば黙っておられるっとね」。この言葉から、遠藤周作の『沈黙』を思い出す方も多いのではないでしょうか。この作品の作者は県立知立東高校2年生の高野麻汐さん。彼女はこの作品の中で、次のように自分の信仰心について語っています。「私の家は仏教徒ではあるが決して熱心な信者ではなく、自分はほぼ無宗教であると言える。だからだろうか。私は神という存在に対してひどく自分勝手だ。自分が困難や痛みに直面したとき、神様(それが何者なのかも分からない漠然とした存在)にどうか助けてくださいと祈る。だが、事件や事故、災害などで罪のない人が被害に遭ったり命を落としたことを知れば、神様なんていないのだと嘆く、つまり、私の中で神の存在の有無はそのときの自分の気持ち次第なのだ。しかし、宗教を信仰する人々にとっては違うはずだ」
この彼女の告白に対して、私はドッキとさせられました。私は彼女とどう違うのか。そして、彼女はそのような私に次のような疑問を投げかけます。「なぜ、神は沈黙するのか、いや、それ以前に神は本当に存在するのか」
この疑問に対して彼女は次のような行動を取ります。「私はその答えを求めて、同じ作者の作品で江戸時代初期の長崎を舞台にした『沈黙』を読んでみた」そして、「私の抱いた疑問は作者が抱いた疑問だったのだと分かった。それと同時に、信者である作者がこのような疑問を持ったことに私は少し驚いた」と語り、「神の沈黙に対する一つの答えとして、プチジャン神父は『神は決して悪しきことを人にはなさらぬ、神はよきことのみを人に与えるのだ』と考えようととしていた」「『沈黙』では神自身がその疑問に答える形で『私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに』と言っていた」と語り、「私は神の沈黙に納得がいかなかったのは、自分の物差しで考えていたからだと初めて気づいた。殉教した切支丹たちは私の目には救われていないように映っていた。しかし、彼らは神に見守られ、その苦しみの先には天国に導かれると信じて最期のときを迎えたのだとしたら」「神は直接肉体を救うのではなく、苦しみ悩む人の傍らで同じく苦しみ、信者は苦しいのは神も同じなのだ思うことで心が救われていたのかもしれない。神は沈黙していなかったし、存在していたのだろう」と一つの答えに辿り着きます。
では、皆さんが信じている神さまはどうでしょうか。            
                        みのり教会 野口勝彦
 

2019年2月11日月曜日

顕現節第7主日聖餐礼拝のご案内。20190216・17

顕現節第7主日礼拝(2/16・17)は

野口勝彦牧師による

「人を裁くな、赦しなさい」

の説教で守られます。
どなたもご自由にご出席ください。


「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」
ルカによる福音書6章37節~49節 

顕現節第6主日聖餐礼拝のご案内。20190209・10

顕現節第6主日礼拝(2/9・10)は

野口勝彦牧師による

「敵を愛しなさい」

の説教で守られます。
どなたもご自由にご出席ください。





「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
ルカによる福音書6章27節~36節 

2019年2月3日日曜日

『ともしび』再開122号。20190203

「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす」
ルカによる福音書10章3節

日本福音ルーテルみのり教会牧師 野口 勝彦

  この「ともしび」再開122号が発行される今日は、昨年1年間の神さまのからの恵みに感謝し、神さまから与えられた1年間の教会活動を振り返り、そして、新たに与えられた1年間の神さまのからの使命を確認する教会総会が行われる日です。
 このみのり教会では、2015年度から教会目標「恵に押し出されて」に、「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。」を主題聖句として、4年間、三浦牧師のもと、神さまから与えられた使命を果たしてきました。私は2019年年度の総会でも同じ教会目標・主題聖句を提案しました。
 「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす」、このみ言葉には、次のような厳しいみ言葉が続いていきます。「それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」、「狼の群れに小羊を送り込む」、「小羊」、それは言うまでもなく、私たちのことです。私たちは、「狼」、つまり、「小羊」にとっては天敵である「狼」の、それも、「群れ」の中に遣わされるというのです。
 先日、テニスの世界四大大会の一つ全豪オープンテニスが開催されました。皆さんもご存知の通り、女子は大坂なおみが初優勝し、アジア人としてはじめて、テニスの世界ランキング1位となり、日本中が歓喜しました。また、男子も錦織圭がベスト8に進出しました。私は、そのベスト8に進出が決定した試合を偶然、テレビで観戦していましたが、その熱戦ぶりに思わず、時間を忘れて5時間5分の全中継に見入ってしまいました。
その試合について、元プロテニス選手で、錦織圭の才能を小学生の時から見出していたスポーツキャスターの松岡修造氏が1月22日、自身の公式サイトを更新し、逆転勝利した錦織圭への思いを次のように綴っています。
「錦織選手の試合はまさに崖っぷちの試合でした。正直に言います。ブスタのテニスを最後まで崩すことはできないのか、という思いと同時に、『ここまでか…』という思いが、僕の頭をよぎってしまいました…。(圭ごめん!)」「でも、圭は決して最後まで諦めることなく “勝てる!” と誰よりも自分を信じていたのです!」「けがをしていた時に培った“タフ”さが、圭の心を諦めさせませんでした」「マイケル・チャンコーチの目が潤んだのは、勝った!という歓喜というよりも、けがや不調でつらい時期を共に過ごし、圭を信じて見守ってきたからこその『よくぞここまで戻ってきてくれた!』という安堵の表情に見えました」と綴っています。
  私たちも、今年、この錦織選手のように、絶体絶命の試練、つまり「狼の群れに小羊を送り込」まれたような試練に遭遇するかもしれません。しかし、錦織選手にマイケル・チャンコーチがいつも共にいて、見守ってくれていたように、私たちにはいつも神さまが共にいて、見守ってくださっています。私たちは今年も、このことを信じ、主の「恵に押し出されて」に、「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。」のみ言葉に従っていけるよう互いに祈り合い、その使命を果たすことができればと思います。

ガンジーとヒンドゥー教 その2       
長谷川勝義

 幼い時から母親の敬虔なヒンドゥー教徒としての信仰を見ていて、ガンジー自身もヒンドゥー教徒として厳格にその教えを守ったようだ。特に、18歳でイギリスに留学と言う時に、母親は、異教徒のイギリスに行けば、そちらの風習にそまってしまうからと留学に反対であった。しかし、酒・女・肉には触れないという約束を必ず守るならば、行ってもよいということで、ガンジーは、イギリスでの3年間の留学の間、この厳格な約束を守り通したということである。このイギリス留学の際に、カースト制度がまず、ガンジーの前に立ちはだかった。ガンジーの属するカーストの長老会議に呼ばれて、国外へ行くことは、カーストの掟に反することだから認められない。どうしても行くというならカーストから追放するという。
 ガンジーは、商人で外国に行って商売している人がいるではないかと反論したが、認められなかった。それでもガンジーは留学を諦めきれず、兄たちの応援もあって、イギリスに旅立った。その結果は、カーストからの追放という厳しいものであった。
 このようなこともあって、ガンジーは、カースト制度の古い因習や同じ人間でありながら、特にシュードラのような人権の認められていないような階級を許しているこの制度を見直すべきだと考えていた。
 しかし、インドのカースト社会は、現在でもその力は、絶大のようで、ガンジーやその他の先進的な考え方を持っているすぐれた指導者がいても改革はむずかしいようだ。それは、インド社会そのものが、カースト社会のしくみにのっかっているといことだろうか。各カーストが自治組織を持っており、成員を援助したり、寡婦や孤児の面倒を見たりする扶助組織としての役割を果たすと共に、カーストのタブーや掟を違反したりする者に対して罰金や体罰を加えたりする権限をもっている。だからこのカーストの掟に違反することは、このカーストから除外され、この社会で暮らすことができないということになる。
 ガンジーは、イギリスでの留学生活の中で、ヒンドゥー社会ではなく、キリスト教の社会の中で生活し、キリスト教文化を大いに体験したわけで、大きな影響を受けたと思われる。熱心なキリスト教徒の家庭とも親しく交わり、クリスチャンの友人もできた。しかし、ヒンドゥー教徒としての信念は生涯揺らぐことはなかった。そのことをヒンドゥー教の研究者で『ヒンドゥー教』―インドの聖と俗―の著者森本達雄氏は、あとがきの中で次のように述べている。
 「ガンジーがヒンドゥー教を自分にとって最上の宗教だと言った時、彼は決して自宗を我田引水的に理想化し、その欠点や俗性に目をつぶったのではなかった。彼は、宗教とその信者との関係を「結婚」になぞらえて言った。「宗教の絆は、結婚の絆よりはるかに固い。そして夫または妻は、それぞれ自分の伴侶が他の女性や男性と比べ物にならないほどすぐれた美点をもっていることを意識しているからではなく、言葉ではうまく言い表されないが、どうにも抗いがたい魅力を感じるがゆえに、夫は妻に、妻は夫に貞節であり続ける。・・・もしも、ヒンドゥー教の多くのの美点に気づいていなかったなら、多分私はヒンドゥー教徒であり続けることなかったであろう。他宗教に対する私の態度は、あらさがしをする批評家的なものではなく、他宗教の中にも類似の美点を見出すことを願い、さらに他宗教にあって、自分の宗教には残念ながら欠けているよいところを自分の宗教に取り入れたいと切望する、一人の敬虔な信仰者としての態度である。」
 このように、ガンジーにとってヒンドゥー教は、夫婦の絆よりもはるかに固いものであり、言葉では言い表せないほど、魅力をもっており、さまざまな美点をそこに見出すものであった。ただ、ヒンドゥーの教えが完全なものではなく、直したい欠点もあることも認める寛容さを彼は持っていた。ヒンドゥーの欠けている点が、何なのかということであるが、それが、カーストによる人間としての差別なのか、女性への差別なのか、はたまた、古い因習や、迷信的なことに未だに固執していることか等が考えられるが、それらは、未だにインド社会に残っているが、時代と共に改善されつつある。
それでは、ガンジーにとって「言葉で表されないほど魅力があるヒンドゥーの教え」とはいかなるものであったか。
 ガンジーのキリスト教徒の友人が「君はキリスト教の良さをそれだけ認めているのになぜクリスチャンにならないのか」と何度もすすめられたが、ガンジーは、「あなたたちは、なぜ、キリスト教だけが正しいというのか。それこそが高慢ではないか。ヒンドゥーは、そのような差別はしないからそれが美点であり、素晴らしいところなのだ。」と答えたということである。(続く)

《2月の予定》

    3日(日)  日曜礼拝、定期総会(豊橋礼拝所)、役員就任式、役員会
    6日(水)  聖書に聴き、祈る会
    7日(木)  田原牧師滞在日
    9日(土)  田原夕礼拝
  10日(日)  日曜礼拝、女性会、男性会
  12日(火)  三遠地区牧師会(浜名教会)
    13日(水)  聖書に聴き、祈る会
  14日(木)  田原牧師滞在日
    16日(土)  田原夕聖餐礼拝
    17日(日)  日曜礼拝、祈祷会、お便りの集い、総会資料製本
    20日(水)  聖書に聴き、祈る会
    21日(木)  田原牧師滞在日
  23日(土)  田原夕礼拝
  24日(日)  日曜礼拝、三遠地区宣教委員会総会(刈谷教会)
    27日(水)  聖書に聴き、祈る会
    28日(木)  田原牧師滞在日

編集後記 
2月になると、梅の花が咲き、通りを歩いていると、その香りがしてきます。ほのかな春の香りです。スイセンの花も開いてきます。春が脈動してきます。再生の時と言うことがわかります。平和の年として、日本や世界が健やかに進む年であることを願っています。原稿をお寄せください。