「神は沈黙していたのか」
先日、信徒の方から青少年読書感想文県コンクール高校の部・知事賞を受賞した作品を掲載した新聞記事をいただきました。
その作品の冒頭は次のように始まっています。「神(デウス)さまはなして助けにこられんとやろうか。神さまはなしてこげんむごか目ば黙っておられるっとね」。この言葉から、遠藤周作の『沈黙』を思い出す方も多いのではないでしょうか。この作品の作者は県立知立東高校2年生の高野麻汐さん。彼女はこの作品の中で、次のように自分の信仰心について語っています。「私の家は仏教徒ではあるが決して熱心な信者ではなく、自分はほぼ無宗教であると言える。だからだろうか。私は神という存在に対してひどく自分勝手だ。自分が困難や痛みに直面したとき、神様(それが何者なのかも分からない漠然とした存在)にどうか助けてくださいと祈る。だが、事件や事故、災害などで罪のない人が被害に遭ったり命を落としたことを知れば、神様なんていないのだと嘆く、つまり、私の中で神の存在の有無はそのときの自分の気持ち次第なのだ。しかし、宗教を信仰する人々にとっては違うはずだ」
この彼女の告白に対して、私はドッキとさせられました。私は彼女とどう違うのか。そして、彼女はそのような私に次のような疑問を投げかけます。「なぜ、神は沈黙するのか、いや、それ以前に神は本当に存在するのか」
この疑問に対して彼女は次のような行動を取ります。「私はその答えを求めて、同じ作者の作品で江戸時代初期の長崎を舞台にした『沈黙』を読んでみた」そして、「私の抱いた疑問は作者が抱いた疑問だったのだと分かった。それと同時に、信者である作者がこのような疑問を持ったことに私は少し驚いた」と語り、「神の沈黙に対する一つの答えとして、プチジャン神父は『神は決して悪しきことを人にはなさらぬ、神はよきことのみを人に与えるのだ』と考えようととしていた」「『沈黙』では神自身がその疑問に答える形で『私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに』と言っていた」と語り、「私は神の沈黙に納得がいかなかったのは、自分の物差しで考えていたからだと初めて気づいた。殉教した切支丹たちは私の目には救われていないように映っていた。しかし、彼らは神に見守られ、その苦しみの先には天国に導かれると信じて最期のときを迎えたのだとしたら」「神は直接肉体を救うのではなく、苦しみ悩む人の傍らで同じく苦しみ、信者は苦しいのは神も同じなのだ思うことで心が救われていたのかもしれない。神は沈黙していなかったし、存在していたのだろう」と一つの答えに辿り着きます。
では、皆さんが信じている神さまはどうでしょうか。
みのり教会 野口勝彦
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