待降節第2 主日礼拝(12/6)は
「福音の初め」
キリスト教ルター派教会:1517年にマルチン・ルターの宗教改革によりドイツで誕生したルーテル教会は、ドイツだけでなく北欧にも広がり、国民教会となりました。その後、アメリカにも渡り、更にアジア、アフリカ、ラテン・アメリカなどに至って今日全世界に存在するようになっています。2017年10月31日に宗教改革から500年を迎えました。
待降節第2 主日礼拝(12/6)は
待降節第1 主日礼拝(11/28・29)は
「神さまからのエール」
新型コロナウイルスの感染、第三波が早くも到来したようです。この原稿作成時点(11/13)で、愛知県内の新規感染者数が4日連続で100人を超えています。
さて、そのような中、NHK連続テレビ小説『エール』も佳境に入ってきました。このドラマのプロデューサーは、このドラマ名について「東日本大震災の被災地・福島をはじめ、日本各地で厳しい暮らしを強いられている方がいます。くじけずにがんばる人に、少しでも元気になってもらいたいという思いから『エール』と名付けました」と語っています。そして、9月14日から再開された番組も11月28日が最終日と、当初終了予定の9月26日から新型コロナウイルス感染拡大の影響に伴い、奇しくも今年の教会暦の最終日となりました。そのドラマの中で、『長崎の鐘』が先日取り上げられていました。
『長崎の鐘』は、長崎医科大学(現長崎大学医学部)助教授だった永井博士が原爆爆心地に近い同大学で被爆した時の状況と、重症を負いながら被爆者の救護活動を記録したものです。永井博士は、この時、妻を亡くしています。題名『長崎の鐘』とは、廃墟となった浦上天主堂の煉瓦の中から、壊れずに掘り出された鐘のことです。浦上天主堂、それは、今から3年前の2017年11月23日にカトリック・ルーテル宗教改革500年共同記念礼拝が行われた場所です。カトリック中央協議会のホームページでは「長崎は、キリスト教の弾圧と迫害を経験した町であり、20世紀の世界の悲劇を象徴する被爆地です。受苦と堅忍、信仰と希望と復活の町、長崎。この地を日本のカトリック教会とルーテル教会は、平和を実現する未来への歩みの出発点とします」としています。
ドラマの中では「鐘よ響け」のサブタイトルで次のように描かれました。
『長崎の鐘』原作の映画主題歌制作のため、長崎を訪れた主人公が博士に次のように問われます。「ある若者が、焦土化した長崎と広島を見て、『本当に神はいるのか?』と私に問いかた時、私はその彼に『どん底まで落ちろ』と答えました。あなたにその意味が分かりますか」。主人公はその問いに答えられず、原爆投下直後に博士が被爆者治療に当たった場所を訪れ、その壁に書かれた「どん底に大地あり」という文字を見つけます。そして、博士の妹の「原爆ですべてを失った人たちが瓦礫の中から鐘を掘り起こし、焦土と化した長崎の街に、鐘の音が再び響きわたったとき、その音色が多くの人たちに生きる勇気を与えてくれた」との話を聞き、「希望…ですか」と博士に答えるのです。博士はその答えに気づいた主人公に「希望を持って頑張る人に、エールを送ってくれんですか」と頼み、この場面は終わります。
私たちは来週からイエスさま降誕を待ち望むアドヴェントを迎えます。それは、神さまが、今、コロナ渦に苦しんでいる私たちのために、希望のエールをくださっているしるしなのです。
みのり・岡崎教会 野口勝彦
聖霊降臨後最終主日礼拝(11/21・22)は
聖霊降臨後第24主日礼拝(11/14・15)は
「命を愛し、平和を願って」
今日は、全聖徒の日、各教会では召天者の方々を覚えて礼拝が守られていると思います。天に召された方々と共に、良き礼拝が守られますようお祈りいたします。
さて、突然ですが皆さんはNHK連続テレビ小説『エール』をご覧になっているでしょうか。新型コロナウイルスの影響で一時撮影がストップし、暫く再放送のような形で放送されていましたが、9月14日から新しい放送が始まりました。このドラマでは豊橋市が一つの舞台となっています。豊橋市をインターネットで調べるとウイキペディアでは「1885年(明治18年)には陸軍歩兵第18連隊が置かれたほか、1908年(明治41年)から1925年(大正14年)までは高師原に陸軍第15師団が置かれるなど、豊橋は軍都として繁栄した」と説明しています。
先日、そのドラマは、軍都豊橋の時代が舞台になり、市街地の7割が焼失した豊橋空襲が登場し、次のような場面が描かれていました。「豊橋では集会での礼拝を監視されるようになったクリスチャンたちが集まって状況を話し合っていた。光子(金子の母)は『信仰は捨てない』と明言した上で危険を犯さない方が良いと提案。するとほかの信徒から『都合が良すぎる』と批判され、馬具店として軍と取り引きがあることや五郎(後に金子の義弟に)が徴兵に取られないことを揶揄される。紛糾する集まりを同行していた五郎はただ見守るしかなかった。その夜、光子や梅(金子の妹)が信仰するキリスト教について知りたいと思った五郎は聖書を読むことに」
このドラマでは、主人公のモデルである作曲家の古関裕而の妻、金子(きんこ)の家は聖公会に属するクリスチャン一家として描かれています。そして、戦争中は金子の家は特別高等警察、いわゆる特高の監視対象として描かれています。「信仰か、身の安全か」、戦争当時のクリスチャンであった人々はその選択をまさに自分の信仰生命を懸けて求められました。その後、ドラマは次のように展開します。
「み言葉に出会った五郎はキリスト教に入信し、主人公の雄一に一冊の聖書を渡します。作業部屋に戻った裕一は、五郎が置いて行った聖書を開いてみました。『悪より心遠ざかりて善をおこなひ 平和を求めて之を追ふべし』」裕一は、この言葉をつぶやき、聖書を閉じると、引き出しの一番下に…しまいました」
このみ言葉はペトロの手紙一3章 11節の文語訳です。「平和のための行動義務」とも呼ばれるこのみ言葉は、新共同訳では10節から「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ」と記されています。
今、私たちは新型コロナウイルスに覆われ、「ウイズ・コロナ」の不自由な生活を強いられています。この全聖徒の日、召天者の方々を覚え、このみ言葉の通り、ひとり一人の「命を愛し」、一日も早い新型コロナウイルスの感染が終息した「平和を願って」祈ることができればと思います。
みのり・岡崎教会 野口勝彦