「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」
ルカによる福音書21章33節
日本福音ルーテルみのり教会牧師 野口勝彦
少し遅くなりましたが、イースターおめでとうございます。今年のイースターは先月の21日、例年よりかなり遅いイースターとなりましたが、イエスさまは私たちに約束してくださった通り、私たち一人ひとりの罪のために十字架に架かり、私たち一人ひとりのために復活してくださいました。
その今年のイースターは、平成最後のイースターでしたが、30年余り続いた「平成」から新しい時代「令和」に入り、10日間にも及ぶゴールデンウイークも明日で終わろうとしています。
キリスト教の世界でもその新しい時代に合わせたかのように、昨年、12月に31年ぶりに0から翻訳された新しい聖書、聖書協会共同訳聖書が出版されました。
私たちの教会でも、今月の『るーてる』にも掲載されていたように今年から改訂礼拝式文の公式使用が開始され、今年の待降節からは新しい聖書日課の使用が始まります。まさに、キリスト教の世界も新しい時代に入りました。
しかし、新しい時代がはじまったからと言って、これまでの時代が否定されるわけではありません。新しい時代は、それまでの時代を基礎に新たに積み重ねられていく時です。
そして、私たちが信じているみ言葉は、時代が変わったからと言って変わるものではないことは言うまでもありません。新しい翻訳聖書が出版されたからといって、もちろんみ言葉自体が変わるわけではありません。そのことを今回の聖書協会共同訳聖書の案内チラシでは「変わらない言葉を 変わりゆく世界に」とのキャッチコピーで表現しています。
世界は時代と共に変化しても、神さまの言葉は決して変わらないのです。私たちは新しい時代を迎え、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」のみ言葉を信じ、復活節のこの時、私たち一人ひとりのために復活されたイエスさまを「変わりゆく世界」に伝えていくことができればと思います。
苦難の僕イエス・キリスト (4月19日朝祷会での話)
長谷川勝義
今日は、受難週の受苦日に当たる日です。キリストの受難を思い、み言葉に耳を傾けたいと思います。
イエスキリストは、伝道の最初においては、神の国の実現を目指していました。「神の国は近づいた。悔改めて福音を信じなさい」と人々に神の国の到来を告げていました。神から遠ざかっている人たちに、悔い改めて、もう一度神様の教えを聞きなさいといったのです。
イザヤ書は、神の国の到来を預言しています。イザヤ書9章5節・6節には、ひとりのみどり子が生まれて、ダビデの王座に着き、正義に基いて、平和な王国が到来すると告げています。11章にも、主の霊がとどまって、正義をその帯として、真実をその身に帯び、そのようなメシアの到来によって、理想的な王国が実現することを預言しているのです。
ですから、イエスキリストも、このような神の国の実現を期待して、人々に教えたのです。このときのメシアは、苦難のメシアではなく、栄光にあふれたメシアである救い主でした。
しかし、このような、イザヤ書に描かれた王国は、実現したでしょうか。否です。ユダヤは、ローマの支配下に置かれて、自治すらできません。正義と憐れみに基いた国ではありません。貧しさと、不自由さの中での生活でした。
キリストは、懸命に神の国のことを教えましたが、次第に人々との間、特に、宗教的な指導者たちとの軋轢が高まりました。祭司長や律法学者・パリサイ派の人々です。イエスのお教えがあまりに革命的で、律法を無視するかのように、真髄をついていたからです。形式だけを守る律法主義ではなく、律法のもともとの神様から与えられた霊的な意味をイエスが教えたからです。伝統ある自分たちの宗教やその権威を保つために、イエスとその教えは邪魔で排除しなくてはならないものとなったのです。
ここで、もう一つのイザヤの預言がありました。同じ、メシアの預言なのですが、イザヤ書前半の勇ましい権威をもった正義の王とは違います。苦難の僕としての救い主をイザヤは伝えています。私は、この二つのギャップ、即ち大きな違いに驚くものです。
この僕は「打とうとする者には、背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には、頬をまかせた。・・・顔を隠さず、あざけりとつばを受けた。」とあります。これが、正義と恵みの救い主の姿でしょうか。しかし、そうなのです。
53章には、「彼が打ち砕かれたのは、私たちのとがのため、・・・彼の受けたこらしめによって、わたしたちは平和が与えられ、彼の受けた傷によってわたしたちは癒された」のです。
結局、人々が望んだような、格好のいい、堂々とした神の王国、メシアが権威をもって、統率し、人々が安心と平和の中で暮らせる世界の実現を人々は望んでいたのです。捕えられて、みじめな姿になった姿になったイエスに失望して、「十字架につけろ」と人々は叫んだのです。ここに、私たちは、私たち人間の罪と弱さがあると思います。聖書にも、人々の罪や鈍さを述べています。ヨハネ12章39節・40節には、「彼らが信じることができなかった理由をイザヤはまた次のように言っている。『神はかれらの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち返らない。』
ユダヤ人たちは、イエスをピラトに訴えた時に、「彼は、ユダヤ人の王だと自称している」言いました。これは、明らかにでっち上げです。イエスは、神の国のことは、よく話されましたが、自分が王などとは言っていません。ピラトもイエスに尋ねます。「お前は、ユダヤ人の王なのか」と。しかし、イエスは、それは、他の者がそう言っているに過ぎない。私の国は、この世に属していない。わたしの国は、この世の国とは違うのだと言っています。
結局、神の国は、この世では実現できませんでした。イエス様の十字架の死をもって、一粒の麦が地に落ちて死ななければ、実を結ばないように、イエスの死をもってしか、実現しなかったのです。ここでのメシアは、栄光の姿のメシアではなく、苦難の中にある、人々から返り見られないみすぼらしいメシアでした。まさに、イザヤ書53章に書かれたメシアでした。キリストの受難と死でもってしか贖われない人間の罪でした。人々は本当の神の国を見出すことができなかったのです。
しかし、一粒の麦の死は、よみがえって実を結ぶことになるのです。十字架の死は、悲劇的な終わりではありませんでした。それは、復活と言う再生の始まりでした。つい先日まで、桜の花のすばらしさを味わいました。そのあとにすぐ、私の住んでいる多米の山すそでは、黄色い山吹の花も咲き、山藤のムラサキの花の蕾も、真っ白いコデマリの花も咲き出しました。それは、わずか一月前ぐらいは、冬枯れで死んだようなさびしい枝しかなかった山の木々が、春の暖かい息吹でまさに、復活したのです。人間の死も同じです。死は終わりではありません。復活という再スタートの日なのです。
イエスキリストは、ご自分の死を通して、私たちに、本当の神の国の姿を示されました。そして、私たちのすぐそこにそれがあることを教えられました。なかなかこの世では実現不可能ですが、見方によっては、既に神の国はそこにも、ここにも、来ているのです。新しい天と地は、遠い未来だけのものではありません。すぐそこに、あるものなのです。
イザヤ書60章19節「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず、月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。」
私たちの復活は、未来ではなく、今、すぐに始まっているものだと思います。罪の体が死んで、霊の体となって、神の国の中で生かされているのです。そのことに感謝したいと思います。
今月の行事予定
□ 8日(水) 聖書に聴き祈る会
□ 9日(木) 田原牧師滞在日
□ 11日(土) 田原夕礼拝
□ 12日(日) 日曜礼拝、ギデオン立証、女性会、男性会
□ 15日(水) 聖書に聴き祈る会
□ 16日(木) 田原牧師滞在日
□ 18日(土) 田原夕礼拝
□ 19日(日) 日曜礼拝、祈祷会、お便りの集い
□ 22日(水) 聖書に聴き祈る会
□ 23日(木) 田原牧師滞在日
□ 25日(土) 田原夕礼拝
□ 26日(日) 日曜礼拝
□ 29日(水) 聖書に聴き祈る会
□ 30日(木) 田原牧師滞在日
編集後記
イースターを多くの方と祝うことができました。日本では残念ながらイースターに無関心で、メディアにも出てきません。皮肉なことに、スリランカでのあの悲惨な事件があったことで、それが、イースターの礼拝に多くの信者が集まった時のことで、それで、今日は、イースターと言う日なんだなと日本の人々は知ったのです。クリスマスは日本でも年中行事の一つとして堂々と存在を示していますが、イースターも、早く、最も価値ある日としてその存在を共に味わえるようになりたいと思います。原稿をお寄せください。
イースターを多くの方と祝うことができました。日本では残念ながらイースターに無関心で、メディアにも出てきません。皮肉なことに、スリランカでのあの悲惨な事件があったことで、それが、イースターの礼拝に多くの信者が集まった時のことで、それで、今日は、イースターと言う日なんだなと日本の人々は知ったのです。クリスマスは日本でも年中行事の一つとして堂々と存在を示していますが、イースターも、早く、最も価値ある日としてその存在を共に味わえるようになりたいと思います。原稿をお寄せください。
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