2024年2月23日金曜日

《三遠地区使信 №1298》20230211「神学校の夕べ」

今月25日、宣教百年記念会堂(東京教会)4年ぶりの「神学校の夕べ」が行われます。今年は4人の神学生が「共に在せ、わが主よ」のテーマで主のみ言葉を語ります。 

私も今から19年前の2005年に「神学校の夕べ」でみ言葉を語る機会を与えられました。そのテーマは「十字架の喜望」。十字架をねがいのぞむ希望ではなく、十字架を喜び望む「喜望」です。私は、このテーマについて当時、「みなさんの中には、神学校の夕べのポスターやパンフレットを見て、間違いではないかと思われた方もおみえではなかったでしょうか。では、なぜ、十字架をねがいのぞむ希望ではなく、十字架を喜び望む『喜望』なのか。このテーマを決める時、私たち三人は、そこに二つの意味が込めました。その一つは、今日のこの神学校の夕べが、今ここにいる三人のためだけではなく、私たち三人にとってのもう一人、つまり、今、病床にいる榎津重喜神学生のためのものでもあると考えたからです。つまり、十字架を喜んで望む『喜望』の『喜ぶ』という文字は、榎津重喜神学生の重喜の『喜』の字を意味しています。みなさんもご存知の通り、榎津神学生は、昨年の4月、急性白血病により緊急入院をし、ご自分の娘さんからの骨髄移植を受け、その後、自分の体を異物として認識する免疫作用と戦いながら、その苦しみの中で、その不安の中で、これまで長期の入院生活をされてきました。そして、私たち三人は、その姿を見ながら、神学生として、何ができるのかをそれぞれ自分自身に問うてきました。私たち三人とってこの一年は、まさに、榎津神学生の闘病生活と共にあったといっても過言ではないかもしれません。そして、それは、まさに、これから宣教の場に、牧会の場に派遣される私たちにとって、一つの試練であったということができるかもしれません。」と語りました。

そして、その時の私の説教題は「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」。み言葉はコリントの信徒への手紙一。このみ言葉は私たちに「十字架につけられたキリスト」を信ずること、それは、「人の知恵によってではなくではなく、神の力によって信じるようになる」ことであると語り、そして、このみ言葉を信ずる時私たちのために十字架につけられ、私たちと同じように苦しまれたキリストの救いが、私たちの下にやってくると言うのです。そこにこそ、私たちの「十字架の喜望」、十字架を喜び望む「喜望」のもう一つの意味があるのです。

この世の重い苦難と恐れと不安を「十字架」において共に担ってくださるキリスト。このキリストを宣べ伝えることが、この19年間、私が派遣された二日市・福岡西教会、佐賀県・牛津幼稚園、東日本大震災ルーテル教会救援「となりびと」、長野・松本教会、みのり・岡崎教会の場で、私に与えられた使命であったのです。

今年「神学校の夕べに」臨まれる4人にも新たな使命が与えられ、宣教の場に派遣されます。新たに派遣される4人の上に神さまの祝福が豊かにありますよう祈りたいと思います。                        みのり・岡崎 野口勝彦 



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