日本福音ルーテルみのり教会牧師 野口勝彦
「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」
ペトロの手紙一2章6節
今日は9月1日。今年も残り1/3となりました。そして、それは同時に2010年代が残り4ケ月となったことを意味します。7月から8月にかけて、巷では来年、つまり、2020年代の最初の年である2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催まで残り1年に迫ったことがテレビや新聞などで大きく取り上げられていました。
今日、9月1日は、三遠地区使信にもお書きした通り、防災の日ですが、それ以外にもインターネットで調べてみると「くいの日」、「宝塚歌劇団レビュー記念日」、「キウイの日」、「マテ茶の日」、「民放ラジオ放送開始記念日」、「霞ヶ浦の日」などの記念日となっています。
その中で私の目に留まったのが、「くいの日」です。「くいの日」は、東日本基礎工業協同組合が平成5年に基礎工事現場での殉職者の慰霊及び基礎工事の安全作業を推進するため、くいの語呂合わせで9月1日を「くいの日」と制定しました。
このみのり教会豊橋礼拝所も先月、献堂20周年を迎えましたが、この会堂の基礎にも多くのくいが打たれていることだと思います。「くい」とは、建物を支える柱のことで、わたしたちの目には見えませんが、家、ビル、道路、橋など地上に建物をたてるとき、とても重要なものになります。
みのり教会豊橋礼拝所が、献堂20周年を迎える事ができたのも、この「くい」のおかげでもあります。
そして、「くい」と同様に建物にとって重要なもの、それは「かなめ石」です。
ペトロの手紙の中で「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない」と記されていますが、みのり教会豊橋礼拝所が、献堂20周年を迎える事ができたのは先の「くい」と共に、信仰の「かなめ石」、つまり、イエス・キリストを信じる信仰があったからです。
私たちは残り4ケ月の2010年代とこれから迎える2020年代も、この信仰の「かなめ石」であるイエス・キリストを信じて、「決して失望することはない」信仰生活を守っていければと思います。
内村鑑三における宗教思想
長谷川 勝義
それを見れば、なぜ、神を信じ、基督を信じ、そこに真理があると確信したかがわかるに違いない。また、内村は、宣教師によって日本に伝えられている基督教をかなり批判しているので、一般に広く普及している教会の基督教とも、どこか違うのである。そこを明らかにしなければ、内村の基督教を理解することはできない。一般の教会の基督教とはどう違うのであろうか。
①基督教の三つの特色
全集9の「我等の基督教」に中で、内村の信じる基督教の三つの特色を述べている。
(一) 福音的基督教
「私どもの基督教は第一に福音的であります。即ち、基督を拝すべき神なりと信じ、奇跡を信じ罪の贖いを信ずる基督教であります。私どもは神の持ちたもう天然以上の力を信じます。私どもは神の聖心に適って私どもに世に於いて為すことの出来ない事は一つもないと信じます。」
つまり、全能である神を信じ、神の独り子である基督を罪の贖い主として世に現れてくれたこと、基督を神として礼拝し、全能なる神に信頼した生活をすれば、神の御心にそって願うことはすべて成し遂げることができるとの信仰であり、そういう福音の宗教であるとしている。鑑三の基督教の中心はこの「福音的な基督教」である。
(二)常識に適った基督教
「私どもの基督教は第二に常識に適った基督教であります。即ち奇跡を信ずると同時に天然常道の遂行を信ずる基督教であります。神に於いて為し能わざる事は一つもありません。しかし神は容易に奇跡を行い給いません。奇跡は非常の場合に於いて神が取り給う非常の手段であります。神が取り給う普通の手段は天然自然の方法であります。」
このように、鑑三は、基督教は神の奇跡を信じるが、そういう奇跡を神は通常には起こさないと言う。通常はごく自然の考え方の宗教だと強調している。つまり、基督教と自然科学とは相反するものではない、科学では証明できないような内容は勿論あるが、非科学的な事柄に基づいた宗教ではなく、ごく単純な、自然と理解できる宗教で、難しい宗教ではないと考えている。
(三)愛国的基督教
「第三に私どもの基督教は愛国的であります。愛国とは勿論外国人を嫌うということではありません。愛国とはその国の天職を信じて、これをすべての事業に現そうとすることであると思います。日本国は世界人類に対して大いなる天職を帯びています。日本人は西洋人の真似をしてそれで足る者ではありません。日本人は欧米人の文明にさらに一歩の改善を加えなければなりません。私どもは外国直輸の基督教をもって満足してはなりません。私どもは欧米より譲り受けし基督教の上に一層の光輝を加えなければなりません。」
鑑三は、欧米から伝わった基督教をそのまま鵜呑みにして満足してはならないと言う。日本人の感覚で、基督教の本来の中身を掴み捉えて、逆に世界に発信すべきだと言っている。日本のこれまでの長い歴史を通して培われてきた文化は、基督教に対して西欧とは違った目で捉え、西欧では捉えきれなかった基督教の真髄を受け止め、開花し、実を結ぶことが出来ると考えた。これが、武士道的基督教であり、日本的基督教とも言うべきものである。
②基督教の根本について
全集9の「神の有無他」(明治34年『聖書の研究』14号「所感」)よって、鑑三は、人々の宗教に対する素朴な質問や疑問に対しての答えになることを以下のように述べていて、これを見ると内村の考え方がよくわかる。
(一)神の有無
「或る人は神は有りと言い、また或る人は神は無しと言う。而して、有りという証拠なしとすれば、無しと言う証拠もまたあるなし。余輩は有りと信じて行なうなり。而して、行なって有りという実証を得るなり。神の存在は科学的に之を言えば、仮説の一なるに相違なし。然れども、最も多くの蓋然性(プロパビリティー)を有する仮説にして最も多くの事実を説明するに足る仮説なり。」
神の存在の有無は、科学的に証明できないが、神有りと信じて実践する中で、神の有ることを確信することができると、一つの仮説かも知れないが、それは、非常に実践的に確かなものであるとしている。神の中で生き、存在していることは、基督信徒の日々の生活の中で、身をもって体験することなのである。
(二)神を識るの途
「神を識らんと欲せば、新たにその存在の証拠を求むるを要せず。神を識らんと欲せば行いを改めよ、義のために勇なれ、欲を減ぜよ、心を清くせよ、ことに自己の真価を知って謙遜なれ、然らば神は事実となりて吾人の心に現われ、吾人はその存在の証明を求むるを止めて、吾人の身をもって彼を世に示さんと欲するに至らん。神は道徳的にこれを発見するを得べし。知識的にこれを看出す能わず。」
ここでも、内村は、神を知るには、その教えを実践してこそ可能だと説いている。知識で神はわからないし、理解できない。神は人間の知恵を超えた方であると言っている。
(三)神は如何なる者ぞ
「キリストはこの問に答えて曰く、『神とは我の如き者なり。我を見し者は神を見しなり』と。即ち神とは宇宙の大権を握る者なりといえども、人の下に立てその足を洗うことを恥となさず、その聖き事天使もその前に立て翼をもってその面を蓋わざるを得ずといえども、しかも、人界に降り来て罪人と食を共にし、その友人をもって自任し給う。彼に一つの私欲あるなく、私憤あるなく、万人を一時に養い得るも、自身の渇きを癒す能わず、無限の愛、無辺の慈悲、智において絶大なるよりはむしろ愛において至大なる者、怒らず、妬まず、傷める葦を折ることなく、煙れる麻を消すことなし。吾人は宇宙の大権を握る者のかくも女らしき者なるを知って吾人の宇宙と人生との関する観念の全く一変するを見るなり。」
鑑三の示す神は、宇宙の大権を持つ者であるが、罪人の足を洗う神であり、貧しい者の友となる神である。つまり、イエス・キリストを通して初めて神がいかなる方であるかを知ることができると述べている。つまり、イエスキリストは、その短い生涯を通して、神の心である神の正義や神の愛を実践した方であり、その歩まれた姿こそが、神を人々に示すものであった。イエスキリストを見れば、神が解るのであり、神を理解することはキリストを通して最も理解することができることを教えている。
《9月の予定》
□7日(土) 田原夕信徒礼拝
□8日(日) 日曜信徒礼拝
□14日(土) 田原夕礼拝、敬老祝福式
□15日(日) 日曜礼拝、敬老祝福式、祈祷会、
お便りの集い、地区神学校世話人会
□17日(火) 地区牧師会(刈谷)
□18日(水) 聖書に聴き祈る会
□19日(木) 田原牧師滞在日
□21日(土) 教区伝道セミナー(豊橋)、田原夕礼拝
□22日(日) 日曜礼拝
□25日(水) 聖書に聴き祈る会
□26日(木) 田原牧師滞在日
□28日(土) 田原夕礼拝(教会共同体講壇交換)
□29日(日) 日曜礼拝(教会共同体講壇交換)
編集後記
まだ、残暑の厳しい日もありますが、天にはうろこ雲も浮かび、朝夕涼しさを感じる日も多くなりました。過ごしやすい季節を迎えて、また新たな力をいただき主に生かされた生活を送りたいと思います。
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