2019年4月8日月曜日

『ともしび』再開124号。20190407

捨てた石
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」
 ルカによる福音書20章17節
日本福音ルーテルみのり教会牧師 野口勝彦

  4月に入りました。私がこのみのり教会に着任して早くも一年が経過しました。改めてこの一年を支えてくださった皆様に感謝いたします。
  さて、その4月に入り、新しい年度が様々なところで始まっています。そして、平成も残り1ケ月を切りました。4月1日に発表された新元号は「令和」です。この新元号には、「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味が込められているそうです。ルーテル教会の年度は1月から始まりますが、4月、特に今年の4月は日本人にとって特別な月になったのは間違いないようです。
 そのような中、先月末、次のようなニュースが流れていました。
「佐賀県多久市に、2年ほど前から燃え続けている山がある。かつて炭鉱で栄えたまちの象徴『ボタ山』だ。地下の石炭くずに火がつき、放水しても消しきれない。最近、煙が出る範囲が広がったらしく、苦情を訴える市民もいるが、いまのところ、消す方法が見つかっていない」
「ボタ山」、それは石炭や亜炭の採掘に伴い発生する捨石(ボタ)の集積場のことです。捨石、それは、つまり、無価値なもの、役に立たないものを意味します。
 ルカによる福音書20章17節には<イエスは彼らを見つめて言われた。「それではこう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』」>と記されています。
 「捨てた石」それはまさにイエスさまご自身のことです。イエスさまは、私たちのために、「捨てた石」となられるのです。
 しかし、それは「無価値なもの、役に立たないもの」としてではなく、「隅の親石」、つまり、建物を成り立たせるためには欠かすことができないもの。不可欠なもののとして、私たちのために十字架にかかられるのです。私たちは平成最後の四旬節の時、私たちのために「捨てた石」となられるイエスさまを覚えて、喜びの復活祭を迎えることができるようこの与えられた時を過ごしていければと思います。

途上にて
(みのり教会豊橋礼拝所 3月17日四旬節第2主日礼拝説教) 
         筑田 仁牧師
「主よ、目がみえるようになりたいのです」
ルカによる福音書18章31節~43節
 
 心を打たれる言葉です。「主よ、目が見えるようになりたいのです。」この盲人のその魂の深みから出てきた言葉といえるでしょう。この盲人の人生に思いをはせてしまいます。目が見えないことで、どれほど人生の中で辛酸をなめてきたことでしょうか。目が見えないと言うだけで、当時の社会では地域の共同体から締め出され、また宗教的な面でも汚れているとして外されてしまうのです。自分で生活を築いていく術もなく、聖書ではこの盲人は「道端に座って物乞いをしていた」と書かれています。毎日、毎日、ただ生きていくために、道端に座らざるを得ない人生。物乞いをしないと生きていけない人生。この盲人は、どれだけ哀しみと苦しみの人生を送ってきたことでしょう。
 その盲人に、人生に大きな転機がやってくるのです。それは、ナザレのイエスとの出会いです。この盲人は、主イエスと群衆が通り過ぎていくだけで反応し、その一行がナザレのイエスであると分かっただけで叫び出します。「ダビデの子、イエスよ、わたしを憐れんでください。」盲人はあらん限りの叫び声を出します。おそらく盲人は主イエスの癒しの噂を以前から聴いていたのです。この人生の苦しみの中を歩いていた盲人にとって、主イエスとの出会いは人生の最初で最後のチャンスです。聖書では、盲人は叫んだ、と書かれています。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます盲人は叫び続けるのです。盲人はそれまでの辛い人生を背負いながら、そして、この苦汁をなめてきた人生を抱えながら、この私を救って欲しいと主イエスに命懸けで叫び、心から訴えるのです。
 「主よ、目がみえるようになりたいのです」これは、切ない言葉です。盲人の絶望が見え隠れします。盲人の哀しみを感じます。しかし、同時に主イエスに対して自分の命をかけてみる意気込みも感じます。そして、盲人のこれからの人生に対する希望の光も、私たちは垣間見ることができるように思います。盲人の主張は、ただ一点です。「目が見えるようになりたい。」他者からさげすまれ、うとまれ、自分の人生すら無意味なものではないかと思ってきた人生に、この人生に、主イエスは希望の光を照らしてくださる。この一点に、この一点に、盲人は集中し、人生の苦しみも悲しみも、そして新しい希望をも主イエスに賭けたのです。
 私は3月3日に教職授任按手式で按手礼を受け、このルーテルみのり教会に牧師となって帰ってきました。
 その時から少しさかのぼります。それは1月のことでした。私は牧師になるための試験、「教師試験」というものを受けました。その一コマで忘れられないやりとりがありました。少し、その話をさせてください。教師試験では、実際に教会の礼拝の中で話した説教原稿とその説教を録音したレコーダーを教師試験委員に提出します。私はその提出した説教原稿の中にこのような一文を書いたのです。それは「人生は毎日、逆境の連続です」という一文でした。この私の一文に試験官から反論がだされました。「筑田さん、これは何ですか」。「これはだれのことですか」と。私が書いた説教原稿ですし、問われたので、私はその時に思ったことを正直に言いました。「これは、私のことかもしれません」。試験官は言いました。「そうだよね。これはあなたのことだよね。普通の人は、毎日が逆境の連続なんて思っていないよ。もっとのんべんたらりんと人生を生きているんじゃないの」。私は笑われました。教師試験をかろうじて通った私ではありますが、このやり取りは私を日々の黙想へと導きました。何度も、何度も反芻して、このやり取りの意味を考えたのです。確かに、私たちにとって人生の毎日は逆境の連続であるとは言えないかもしれない。連続であるとは、ちょっと言いすぎなのです。言葉に不適切な面がある。そのことは認めざるを得ない。確かに、確かに、試験官の言う通りなのです。
 しかし、と思いました。私の人生観ではやはり、どうしても、人生は逆境の連続ですと表現するしかありません。これは、どちらかが正しくて、どちらかが間違っているというものではないのです。このことは人生に対する、日々の生活に対する、人それぞれの感じ方の違いではないかと思うようになりました。この中に御存じの方もおられると思いますが、私は治らない持病をもっています。私の半生を振り返るとき、日常生活は、そしてその営みは、どうしても逆境の連続であると言うしかありませんでした。
 そして、私は教会に通う方々の中にも、その方の背景に、背負わざるを得ない十字架を感じてしまいます。私の見方は偏っている、そういわざるを得ないかもしれません。人間の苦しみや悲しみばかりをみてしまう私の見方は、やはり客観的に考えてみても偏っていて、自分でもどうかと思うのです。
 でも、このことは否定的な側面だけではないように思います。今日の盲人を癒す聖書箇所に話を戻しますと、私が一番心打たれたみ言葉は、この盲人の「主よ、目が見えるようになりたいのです」という叫び声でした。この盲人の人生をかけた一言です。切実な叫び声です。ただ一心に目が見えるようになりたい、その盲人の哀しみが私の心の琴線に触れるように感じました。恐らく、この盲人にとっても人生は逆境の連続であったと私は思うのです。この盲人もやはり自分の十字架を背負っているのです。
 主イエスは、福音書に書かれているようにいたるところで病を癒す奇跡を行います。しかし、今日の聖書箇所は、その沢山ある奇跡物語の一つとして私は捉えることができませんでした。まさに、名前はないのですが、この盲人のたった一つの、たった一回限りの、かけがえのない癒しの物語として、み言葉を聴きました。逆境や人生の哀しみばかりを感じてしまう私ですが、だからこそみ言葉が私の心の琴線に触れ、そしてこの心に迫ってきたのです。
 目が見えたいという一心不乱な願い、救いへの希望、私自身もこの盲人と同じように主イエスに訴えている現実があります。私自身も、持病を抱え、どうにもならない自分を抱えて、主イエス・キリストに目が見えるようになりたいと、心の底から叫んでいるのです。
 そして、願っても良いのであれば、私はこれから牧師として、教会に集う方々のそれぞれの苦しみに寄り添うものでありたい、そう願っています。おひとりおひとりの人生の苦しみ、いや、それだけではなく喜びにもより添うものでありたいと願います。牧師になった私が一番望んでいることは、このことです。私は主に呟きます。どうぞ主よ、そのために、この私の目を見開いて下さいと。牧師として、私の目を見開いて下さい、そう祈っています。
 隣り人と人生の苦悩も悲しみも、そして喜びや嬉しいことをも分かち合っていきたいのです。主が私達一人ひとりにして下さる日々の生活の小さな恵みの出来事を共に見出だしつつ、そこからくる人生の喜びと福音の豊かさを分かち合っていきたいのです。
 私は日々の逆境の生活の中で、静かにそう祈り続けています。
 教会の暦は四旬節を迎えています。主イエス・キリストの受難と贖いの十字架を生活の中で静かに覚える季節を迎えています。主イエス・キリストは、群衆の苦難に、その中に集う一人ひとりの逆境に、はらわたがちぎれるくらいに深く憐れまれ、寄り添うお方です。
 今日の盲人を癒す物語の中でも、この叫びに誰よりも応答したのは主イエス・キリストご自身でした。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と主イエスは言われます。これをもう少しかみ砕いて言うならば、「お前の持っている信仰がおまえ自身を救ったんだよ」とも言えるでしょう。主は決して私があなたを癒したとは言いません。お前自身の信仰がこの癒しのみ業を導いたのであると告げるのです。
 そして今、ここに集う方々の心の呟きに主イエスは耳を傾けて下さいます。神は、私たちのような、本来罪深く、どうにもならない者を、その愛によって包むために、その独り子を十字架にかけられました。主イエス・キリストはたった一人で、孤独に、誰からも理解されずに十字架にかけられていきます。まさに主イエス・キリストは苦難と逆境の中で人生を送り、そして十字架上で死んでいくのです。
 今週一週間、弟子達からも理解されずに、たった一人で苦難の十字架を背負われた主イエス・キリストのこのご受難を覚えつつ、この一週間、一日一日を大切に送りたい、そう願い黙想の日々を送っていきたいと思います。

祈り  主イエス・キリストの父なる神様 四旬節を迎えています。あなたの苦難の人生を、そして十字架を覚えて歩むときを迎えています。あなたの十字架は、私達のように、罪を犯して歩まざるをえない者たちの、その罪の贖いのために、なされたものです。包まれざる私たちを、その愛で包んでくださる十字架の愛に感謝いたします。
 みのり教会に集うお一人お一人の信仰の歩みを、神様、どうぞお支えお守りください。今日ここに集うお一人お一人の様々な心の葛藤や、そして喜びに、あなたが寄り添ってくださいますようにお願いいたします。
 この祈りを、主イエス・キリストのみ名によって御前にお捧げ致します。アーメン

イースターを迎えて                                           
長谷川泰子

 桜が咲き、春の季節がやってきました。けれど、日本のあちこちで雪が降っているのをニュースで見て、びっくりします。でも、確実に春は目の前です。
 プライベートのことですが、孫の奏音(そら)が4月5日に入学式を迎えました。ピカピカの小学一年生です。奏音は6年前の3月31日に生まれました。その日はイースターで、イエス様のよみがえられたお祝いの日でした。誕生の知らせが入りとてもうれしかったことが思い出されます。そんな彼女も6才に成長しました。時々多米にやってきますので、その時々の奏音との会話が思い出されます。
 今より少し前の話ですが、ピアノの上に路津子の写真が置かれています。奏音は写真を見ながら、「るっちゃんはお空に行っちゃったの?」と、空に向かって指差すのです。わたしは「そうね、るっちゃんは、お空に行って奏音のことをいつも見ていてくれているんだよネ」と言いました。
路津子が召されて3年半になろうとしていますが、私はかた時も忘れられないのです。親よりも先に召されたことに対して悲しみの中に、理不尽を感じてどうしても神様にたずねてしまいます。
 最近になって、ある聖書の箇所が浮かんできました。ヨハネ11章25節から27節、ラザロの死を知らされたイエス様がマルタに話すシーンです。
 イエスは言われた。「私は復活(よみがえり)であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も決して死ぬことはない。このことを信じるか」と言われました。マルタは言った。「はい主よ、あなたが世に来られるはずの神の子メシアであると私は信じております」
 今はこの地にいない者も、今生かされている者もすべてイエス様がご自分の命の中に引き取ってくださっているのです。マルタのように告白できる者になりたいです。
 イースターを喜んでお迎えできますようにと祈ります。

4月の行事予定
□7日(日) 日曜礼拝、役員会
□10日(水) 聖書に聴き祈る会            
□11日(木) 田原牧師滞在日
□13日(土) 田原夕礼拝            
□14日(日) 日曜礼拝、女性会、男性会
□17日(水) 聖書に聴き祈る会          
□18日(木) 田原牧師滞在日
□19日(金) 朝祷会:豊橋
                受苦日礼拝/午前10時30分~:豊橋
                                午後2時30分~:田原
□21日(日) 復活祭合同聖餐礼拝、祝会、墓前記念会
□23日(火) 三遠地区牧師会:豊橋   
□24日(水) 聖書に聴き祈る会       
□25日(木) 田原牧師滞在日
□27日(土) 田原夕礼拝
□28日(日) 日曜礼拝、祈祷会、お便りの集い       
□29日(月) わいわいワーク(福祉村)

編集後記 
 今年の4月21日は、平成最後のイースターと言うことになります。といっても、普段と何も変わることがないのですが、
 イースターは、復活の日ですから、皆が希望を持ってまた新しく再出発する日です。子どもたちは、新しい学年を迎え、大人は、新しく仕事につく人もあるでしょう。それぞれの所で、一人ひとりが生き生きとがんばれることを神様は望んでおられることです。




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