2018年8月4日土曜日

『ともしび』再開116号。20180805

平成30年7月豪雨(西日本豪雨)を覚えて
日本福音ルーテルみのり教会牧師 野口勝彦

イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。マルコによる福音書4章39節

  平成30年の夏、それは来年4月30日で平成が終わるので、平成最後の夏です。その最後の夏に平成最大の豪雨被害が西日本を中心に発生しました。2018年7月30日現在、今回の豪雨で225名の方が天に召され、12名の方が未だに行方不明となっています。
  さて、私は今回の豪雨報道の中で2つの新聞記事に目が留まりました。
  一つは、今回の豪雨で家族を失った方の記事です。
「何しとるんか。何でこんな所に」。広島県熊野町川角5の住宅街「大原ハイツ」で、会社員、角森(つのもり)康治さん(54)は妻奈々さん(44)の遺体が運ばれて来るとおえつを漏らした。裏山が崩れ、家が土砂にのみ込まれた。6月14日に結婚したばかり。結婚指輪を今月7日に渡す約束は、果たせないままになった。仕事のため、島根県安来(やすぎ)市で家族と離れて暮らす。週末を一緒に過ごそうと、車で6日夕に広島へ出発した角森さんは、同日午後8時ごろ、奈々さんから「気をつけて」と無料通信アプリ「ライン」でメッセージを受けた。これが、最後の言葉になった。ラインでは「家の前の水路があふれている」とも伝えてきたがここまでの災害になると思わず、避難を促さなかったのは悔やんでも悔やみきれない。7日朝に熊野町に到着すると、「家が地面から無かった」。
 互いに再婚。熊野町の家には、奈々さんと一緒に長男美憲(みのり)さん(13)と次男健太ちゃん(2)、義母の青木裕子さん(71)もいたとみられ、安否不明のままだ。美憲さんはサッカー少年で、東広島市のチームに所属。「強豪高校に進学したい」と夢を膨らませていた。「おっちゃん」。そう呼んで懐いてくれていた健太ちゃんは「角森健太」と言えるようになったと聞き、自分の耳で聞きたいと楽しみにしていた。8日午後2時半ごろに奈々さんの遺体が見つかった後、土砂の下からアンパンマンのぬいぐるみが見つかった。子どものためにプレゼントしたもので、健太ちゃんはいつも抱いていた。ぬいぐるみのそばに健太ちゃんがいるような気がしてならない。確認した奈々さんの顔はいつも通り奇麗だった。最初はよく似ている義母と思ったが、耳にピアスの跡があり、服もよく着ていた赤白のボーダーだった。土砂の中から、アルバムも回収した。角森さんは声を振り絞るように言った。「僕の写真なんてほとんど無いんです。でも、息子2人の写真は持って帰りたいし、義母の写真は義兄に返したい」
  そして、もう一つの記事は、救助の記事です。
 「救助はすぐそばまで来ています。必ずあなたを助けます」。豪雨被災地へ応援に向かっていた名古屋市消防局の公式アカウントのツイートがインターネット上で話題になっている。9日午後時点で約2万5000回、リツイート(拡散)された。市消防局によると、愛知県の緊急消防援助隊の一員として、被害が深刻な岡山県倉敷市へ移動中の担当者が7日午後、救助を待つ被災者の不安を和らげようとツイッターに投稿した。隊はその後、同市真備町に到着。9日朝までに水没しかけた住宅に取り残された98人を救出した。投稿には感謝のコメントが多く寄せられ、「救助していただきました」との報告もあった。
この二つの記事に接する時、私たちは、「なぜ」との疑問を抱かずにはいられないのではないでしょうか。一方は犠牲になり、一方は救助される。その区別には理由はありません。それを人は運命であるとか、偶然であるとか言います。しかし、私たちキリスト者はどのように理解すればよいのでしょうか。
 マルコによる福音書では、 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになった時、弟子たちの「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」との叫びに、「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。」応えてくださいました。
 なぜ、今回の豪雨では応えてくださらなかったのか。
 私たちは、災害が発生する度に、この問いを繰り返さざるを得ません。しかし、その一方で私たち、キリスト者が信じるのはイエスさまであり、神さまです。神さまのみ心は私たちに分かりませんが、被災者の方を覚えながら祈り続けていくことができればと思います。

        日本のキリシタン            
長谷川勝義

九州から京都・堺・大阪へとザビエルたちは、日本にキリスト教を伝えるために努力した。神社や寺院の勢力が圧倒的であった時代にキリスト教はどのように伝えられたのか、困難を極めたに違いない。
 しかし、優位なこともあった。それは、イエズス会は、ポルトガルと言う国の後押しがあったからである。貿易による利益、ヨーロッパから始めてもたらされた鉄砲や大砲、火薬と言う武器を彼らを通して手に入るということが、当時の戦国時代の大名たちが、宣教師たちに興味・関心を抱かせたということである。
 キリスト教そのものよりも、それに付随しているこうした武器を手に入れるために、宣教師たちに近づいたに違いない。宣教師イコール、ポルトガル人、鉄砲・大砲・火薬という構図である。
 しかし、宣教師たちは、真面目に日本人たちにキリスト教を伝え、殿様だけでなく、貧しく、生活に苦しんでいる人々へ、基督の救いを本気で伝えようとするイエズス会の熱心な宣教師もいたわけである。
 どのようにして、キリスト教を伝えたのか、その一例をフィクションかも知れないが、実際もそうであったかも知れないということを伝えたいと思う。葉室麟著『風渡る』で、黒田官兵衛と、ロレンソ(元僧侶でキリシタンとなり、盲目であったが、弁舌に優れ、キリスト教を日本の人々に分かりやすく伝えた)との会話の中から、当時の人々がどのようにキリスト教に触れ、キリスト教を理解していったかを、知ることが出来ると思う。
 キリシタンの説教を聞いていた官兵衛が特に引かれたのが、目の不自由なロレンソと南蛮の琵琶を弾く少年の二人連れだった。何日かつけまわすようにして説教を聞いていた官兵衛は、ある日、意を決してロレンソに声をかけた。
 官兵衛がロレンソに問いかけたのは、
「キリシタンにとって最も大事なものは何なのか」というものであった。ロレンソは首をかしげて、しばらく考えた後で、「それは、アモールでございましょう」「あもーる?」
 官兵衛は目を丸くした。アモールとは後に「愛」と訳される言葉だが、この当時の日本語では適切な訳語がなかった。キリシタンのパウロ養方軒は布教書の翻訳でアモールについて「大切に思うこと」と訳している。
 この時ロレンソも
「アモールとは、大切に存ずるということです。だから、われわれは貧しい者も富める者も同じように、お互いを大切に思わなければなりません。」
「おのれを大切に思うのではなく、人を大切に思うのか。」
 官兵衛は首をかしげた。なんとなく納得できるような、わからないような話である。
「おのれが大切だと思うなら、人も大切だと思えるはず、人を大切に思えない者はおのれも大切に思っていないのです。」
 ロレンソと官兵衛は、いつのまにか路地の築地塀のそばに座り込んで話していた。
 ロレンソは穏やかな笑みを浮かべて、
「私は今ではほとんど目が見えなくなりましたが、かつて見えていた頃、花を見てはきれいだと思い、山河の風景、夕焼け、夜の星も美しいと感嘆したものです。あなたは、そうは思われませんか」
「わたしも美しいものは美しいと思う」
「だとすると考えてください。たとえば職人が作った細工物が美しければ、腕のいい職人がいることがわかるではありませんか。この世が美しいとすれば、それを造られた方は素晴らしい方のはずです」
「それが、でうすか?」
「さようです。そして、そのような美しいものを造り出す力こそ、アモールだとわたしは思います。大切に思わなければ美しいものはできないはずですから」
「この世を大切に思うものがいるということか」
「そうです。わたしたちはみな、その方から大切に思われているのです。だから、お互いを大切に思わなければなりません」
 このように、神の愛を本当に理解した者の巧みな話を聞き、官兵衛などの武将も、また、平民たちも、キリスト教のすばらしさを理解していったことが、うかがわれるのである。
 貿易の利益とか、武器の調達とかだけでなく、純粋にキリスト教の教えの素晴らしさを理解していったキリシタン大名やその領民は、キリスト教の素晴らしさ、神の愛に触れて、深い信仰を持つようになったということを忘れてはならない。
 日本最初のキリシタン大名となった大友純忠、島原半島のキリシタンを保護した有馬晴信、九州の大部分を押さえた大友宗麟、戦の巧者黒田官兵衛、領地を捨てても信仰を捨てなかった高山右近、朝鮮出兵で活躍した小西行長、会津をキリシタンの城下にした蒲生氏郷、伊達政宗から棄教を迫られても屈しなかった後藤寿庵等々、信仰の闘士は、輝いていた。
 時代の流れにより、キリスト教は弾圧を受け、消滅したかのように見えたが、250年もの長い間、地下にもぐっていたキリスト教は、明治の時代、開国によって、息を吹き返し、日本の各地からよみがえってきたことを忘れてはならない。信仰は絶えることなく、人々の心の中で生きていたのである。

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